メッセージ
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)
逃れの町
投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-11-17 21:19
閲覧数
19
251116利別教会メッセージ
御言葉:ヨシュア記20章1節から9節
題:逃れの町
先週は聞いておられる主という題でした。できないことが何一つない主なる神様が、私たちの口の言葉と心の思いを聞いておられ、その通りになされる時、それが豊かな祝福となる言葉でありますように祈ります。今日は逃れの町という題で私たちの魂の逃れ場についての御言葉です。
1. 逃げ込めるように
先週の聖書は民数記でした。民数記にはイスラエルの民が40年間荒れ野を放浪した経緯が記されています。そして、その40年間を経て、いよいよ時が来て、申命記に書かれているように、神様は新しい世代に神の国の律法を与えられ、ヨシュアに導かれてカナンの地に入りました。ヨシュア記には、イスラエルの民のカナン征服の様子が記録されています。前も説明したことがありますが、カナンの征服はカナンの民族の罪に対する神様の裁きでした。ノアの洪水の裁き、ソドムとゴモラに対する裁きに続く神様の裁きです。神様は愛と憐れみをもって悔い改めることを待つ愛の神様です。しかし、罪を裁かれる正しい正義の神様でもあります。また、カナンの民族の裁きの中で、嘘をついてでもイスラエルに逃れたギブオンの住民は皆生かされたことがヨシュア記9章に記されています。
今日の本文の前のヨシュア記19章まで征服したカナンの地を、くじ引きをして12の部族に割り当てました。そして、今日の本文の、1節から3節です。「1主はヨシュアに仰せになった。2イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、3意図してではなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。」神様はヨシュアにモーセを通して告げておいた「逃れの町」を具体的に定め、過失致死の罪を犯した者がそこに逃げ込めるように逃れの場所にするように命令しました。それは、血の復讐をする者から、過失致死の罪を犯した者の命を何とかして守るためでした。逃れの町に入る手続きはどんなものなのでしょうか。
2. その訳を申し立て
4節です。「これらの町のいずれかに逃げ込む場合、その人は町の門の入り口に立ち、その町の長老たちの聞いている前でその訳を申し立てねばならない。彼らが彼を町に受け入れるなら、彼は場所を与えられ、共に住むことが許される。」過失致死の殺害者は逃れの町に逃れ込むと、取り調べを受けます。経験も知恵もある町の長老たちはその人の言い訳をしっかり聞いて、受け入れるかどうかを判断します。そして、過失による殺人をしたと判断されるとその人のために住む場所を用意して一緒に住むことが許されます。先生、旧約の律法は「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足」と定められているのではありませんか。そのとおりです。しかし、過失によって人が死んだときは逃れることができると神様は命令しました。先生、一度逃れの町に受け入って住むことになった殺害者は本当に安全なのですか。安全です。しかし、条件がありました。
3.町にとどまらねばならない
5節、6節です。「5たとえ血の復讐をする者が追って来ても、殺害者を引き渡してはならない。彼がその隣人を殺したのは意図的なものではなく、以前からの恨みによるものでもなかったからである。6彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる。」自分の家族や親せきを失った人は殺人が過失か意図的か判断する前に怒りが先に走り、血の復讐をしたくなります。それで、過失致死の罪人を追って来て殺そうとします。その時、逃れの町に受け入れられた人を引き渡すことはできないのです。公の裁判を受けるまで、その町にとどまれば安全は確保されます。また、大祭司が死ぬまで逃れの町に住んだ人は自分の家、自分が逃げだして来た町に帰ることができます。長い時間によって過失によることが知らされたので帰れたと思います。いわゆる逃れの町は、拘置所の役割も担ったのです。大祭司が死ぬまで長く逃れの町でとどまった人は釈放されました。しかし、自分勝手にその逃れの町から出た場合は血の復讐する人に殺されても仕方ない、ということでした。逃れの町の内にとどまらなければ、死を覚悟しなければなりませんでした。その逃れの町はどこにあったでしょうか。
4. 逃れ得る町
7、8節です。「7彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライム山地のシケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。8エリコの東、ヨルダン川の向こう側では、ルベン族に属する台地の荒れ野にあるベツェル、ガド族に属するキレアドのラモト、マナセ族に属するバシャンのゴランをそれに当てた。」この六つの逃れの町の特徴はイスラエルのどこからでも、一日でたどりつくことができたということです。遠くて逃げ込む前に復讐する人によって命を失うことを避けるための神様の計画でしょう。そして、最後に神様は過失によって殺害者になった人の命を大切にするようにもう一度逃れ町を設置する理由を説明します。
5.共同体の前に立つ前に死ぬことがないように
9節です。「以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。」神様は意図的に人を殺した人は必ず死刑にするように言われました。そして、過失で人を殺した人は必ず殺さないように逃れの町を定めて運用するように命令したのです。神様がこのように逃れの町を予め約束したのはなぜでしょうか。今日は逃れの町に隠されている神様の御心を考えたいと思います。
6 大きな過失を起こしたが終わりではない
逃れの町が私たちに示す神様のメッセージは、人を殺してしまった大きな過失を起こしたとしても、それで終わりではない、まだ生きる機会があり、希望があるということです。世の中を生きるなら、生きた年数に相応の様々な過失が発生します。例えば、過って投資した結果、家のお金をゼロにしたり、老後の生活費をオレオレ詐欺に巻き込まれて全部無くしたりします。そのようなことがあれば、生きる力を無くしてしまいます。また、良かれと思った自分の判断が、結果的に家族や同僚に取り返しのつかない重荷を負わせることがあります。それでも、過って隣人を殺してしまった時の重苦しさとは比較にならないことでしょう。そこには、殺人を犯してしまったという罪の呵責だけではなく、復讐への恐れにも苛まれるからです。
そのような人のために神様が定められた逃れの町の律法は、過失を犯さなくては生きることのできない、私たち人間にとって希望であり、命の場所であるのではないでしょうか。これで、終わりではありません、まだ生きる道があります。また、もとの家に戻って生活することもできます。その神様のメッセージが逃れの町にあります。この旧約の逃れの町は、新約になって何になっているのでしょうか。
7 逃れの町、イエス様
マタイによる福音書11章28節から30節です。「28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」新約の時代から今の私たちが住んでいるこの時代まで、目に見える逃れの町は無くなりました。近代の国家には、過失致死についての法律があり、その法律によって命は守られることになっています。しかし、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と仰いました。この御言葉の中に「重荷を負う者」とは誰を意味するのでしょう?一番重い重荷は、繰り返しますが、罪の重荷です。罪の呵責です。イエス様はその重くて負いきれない罪と罪の呵責によってつぶされそうな者を、「だれでもわたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。「だれでも」、「休ませてあげよう」と仰るのです。
罪の重荷を負って肉体の死を目の前にしてイエス様のもとに来たのがヨハネによる福音書の8章に出る姦通の現場で捕らえられた女です。彼女はすべての重荷に押しつぶされそうになっていたでしょう。石で打ち殺される恐怖、恥ずかしさ、罪責感、やり直しが効かないという厳しい現実に打ちのめされたことでしょう。しかし、彼女は自分の意志ではありませんが、イエス様のもとに引っ張り出されて、出て来ることができました。そして、肉体の命の救いだけではなく、魂の救いの恵みまでいただくことになりました。イエス様は仰いました。ヨハネ8:11~「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」。「わたしもあなたを罪に定めない。」と、罪と呵責からの自由を宣言して下さいました。そして。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と、イエス様は新しく生きる道をも与えられました。
もう一人、ルカによる福音書23章のイエス様と一緒に十字架に付けられた強盗はどうだったでしょうか。彼はこの世の命の終わりに近づいてやっと、自分の罪の深刻さに気付きました。十字架刑の苦しみの中で、永遠の罰が迫って来る恐れに飲み込まれていたに違いありません。しかし、彼も自分の意志ではありませんでしたが、幸いに、導かれて、魂の逃れの町、イエス様のもとにいました。イエス様の「34~「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」~」という祈りを聞きました。まさに、自分の事だと思いました。そして、この方が自分の霊と魂のまことの逃れ場であると確信しました。それで彼は、「42~「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願うに至りました。イエス様はこう答えられました。「43「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」」何の権威もないただの人間の言葉ではなく、永遠の命と裁きの権威を有する神の子であるイエス様が、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されたのです。全ての重荷は過ぎ去り、何者にも奪われない安息を受け取ったことでしょう。そして実際に、彼は、永遠の命をいただき、神様の国をいただきました。
8 逃れの町、教会
そして、今、逃れの町の役割を任せられている所が教会です。なぜなら、教会はイエスキリストの体であり、教会の頭はイエスキリストであるからです。教会には魂の逃れの町であるイエス様がいつも共におられます。教会は罪と罪の呵責で心と魂に苦しみを持つ人が誰でも来て、罪を悔い改めて、回復させられて、新しく生まれることのできる、逃れの町です。それで、逃れの町として教会は、罪を憎み、罪を悲しみますが、全ての人を愛し受け入れます。教会は、罪を裁く場所ではありません。逃れの町の住民は、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びます。私たちの教会も、いつもそのようであれますようにと祈ります。
イエス様はヨハネによる13章34節で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られました。そのイエス様の愛はローマの信徒への手紙5章8節の愛、すなわち「5:8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」、その愛です。その愛によって、キリストを信じ、罪の赦しと永遠の命を頂くならば、その瞬間、新しい存在に変えられます。コリントの信徒への手紙二5章17節です。「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」キリストにあって、誰にでも、真の安息と自由と、新しい歩みを頂く道が開かれています。
9.招きと決心の時間
それでは招きと決心の時間を持ちましょう。神様はわたしたちの弱ささえも、ありのままによく御存知です。神様は、私達にどうしようもない過失があったとしても、私達を憐れみ、私達と共に涙を流して下さる、逃れの町、そのものです。神様は、あなたの過失のために十字架で死んで葬られ、三日後によみがえられたイエス様を信じなさい、と仰います。イエス様を信じるならば、誰でも永遠の逃れの町に入って安息を頂くことができます。イエス様の内に逃れる者は安全です。そのイエス様の内に、罪の赦しと、永遠の命と神様の子になる恵みがあります。知恵と宝が全てそこにあります。新しく生きる道が備えられてあり、復活の業が備えられています。詩編103篇3~5節(新改訳)「3主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、4あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、5あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」
私たち人生は僅かに現れてやがって消えて行く霧のようです。たった一度しかない、その短い人生の中で、イエス様に出会って、罪が赦され、永遠の命をいただき、神様の子供になって感謝と讃美を主にささげることほど幸いな人生はありません。今、イエス様を自分の罪のために死んでまた復活された救い主としてお迎えしますように、主イエス様の十字架に逃れますように祝福します。
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれ、すべての面で恵まれ、健やかであるように祝福します。」
御言葉:ヨシュア記20章1節から9節
題:逃れの町
先週は聞いておられる主という題でした。できないことが何一つない主なる神様が、私たちの口の言葉と心の思いを聞いておられ、その通りになされる時、それが豊かな祝福となる言葉でありますように祈ります。今日は逃れの町という題で私たちの魂の逃れ場についての御言葉です。
1. 逃げ込めるように
先週の聖書は民数記でした。民数記にはイスラエルの民が40年間荒れ野を放浪した経緯が記されています。そして、その40年間を経て、いよいよ時が来て、申命記に書かれているように、神様は新しい世代に神の国の律法を与えられ、ヨシュアに導かれてカナンの地に入りました。ヨシュア記には、イスラエルの民のカナン征服の様子が記録されています。前も説明したことがありますが、カナンの征服はカナンの民族の罪に対する神様の裁きでした。ノアの洪水の裁き、ソドムとゴモラに対する裁きに続く神様の裁きです。神様は愛と憐れみをもって悔い改めることを待つ愛の神様です。しかし、罪を裁かれる正しい正義の神様でもあります。また、カナンの民族の裁きの中で、嘘をついてでもイスラエルに逃れたギブオンの住民は皆生かされたことがヨシュア記9章に記されています。
今日の本文の前のヨシュア記19章まで征服したカナンの地を、くじ引きをして12の部族に割り当てました。そして、今日の本文の、1節から3節です。「1主はヨシュアに仰せになった。2イスラエルの人々に告げなさい。モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、3意図してではなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。」神様はヨシュアにモーセを通して告げておいた「逃れの町」を具体的に定め、過失致死の罪を犯した者がそこに逃げ込めるように逃れの場所にするように命令しました。それは、血の復讐をする者から、過失致死の罪を犯した者の命を何とかして守るためでした。逃れの町に入る手続きはどんなものなのでしょうか。
2. その訳を申し立て
4節です。「これらの町のいずれかに逃げ込む場合、その人は町の門の入り口に立ち、その町の長老たちの聞いている前でその訳を申し立てねばならない。彼らが彼を町に受け入れるなら、彼は場所を与えられ、共に住むことが許される。」過失致死の殺害者は逃れの町に逃れ込むと、取り調べを受けます。経験も知恵もある町の長老たちはその人の言い訳をしっかり聞いて、受け入れるかどうかを判断します。そして、過失による殺人をしたと判断されるとその人のために住む場所を用意して一緒に住むことが許されます。先生、旧約の律法は「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足」と定められているのではありませんか。そのとおりです。しかし、過失によって人が死んだときは逃れることができると神様は命令しました。先生、一度逃れの町に受け入って住むことになった殺害者は本当に安全なのですか。安全です。しかし、条件がありました。
3.町にとどまらねばならない
5節、6節です。「5たとえ血の復讐をする者が追って来ても、殺害者を引き渡してはならない。彼がその隣人を殺したのは意図的なものではなく、以前からの恨みによるものでもなかったからである。6彼は、共同体の前に出て裁きを受けるまでの期間、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、町にとどまらねばならない。殺害者はその後、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる。」自分の家族や親せきを失った人は殺人が過失か意図的か判断する前に怒りが先に走り、血の復讐をしたくなります。それで、過失致死の罪人を追って来て殺そうとします。その時、逃れの町に受け入れられた人を引き渡すことはできないのです。公の裁判を受けるまで、その町にとどまれば安全は確保されます。また、大祭司が死ぬまで逃れの町に住んだ人は自分の家、自分が逃げだして来た町に帰ることができます。長い時間によって過失によることが知らされたので帰れたと思います。いわゆる逃れの町は、拘置所の役割も担ったのです。大祭司が死ぬまで長く逃れの町でとどまった人は釈放されました。しかし、自分勝手にその逃れの町から出た場合は血の復讐する人に殺されても仕方ない、ということでした。逃れの町の内にとどまらなければ、死を覚悟しなければなりませんでした。その逃れの町はどこにあったでしょうか。
4. 逃れ得る町
7、8節です。「7彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライム山地のシケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。8エリコの東、ヨルダン川の向こう側では、ルベン族に属する台地の荒れ野にあるベツェル、ガド族に属するキレアドのラモト、マナセ族に属するバシャンのゴランをそれに当てた。」この六つの逃れの町の特徴はイスラエルのどこからでも、一日でたどりつくことができたということです。遠くて逃げ込む前に復讐する人によって命を失うことを避けるための神様の計画でしょう。そして、最後に神様は過失によって殺害者になった人の命を大切にするようにもう一度逃れ町を設置する理由を説明します。
5.共同体の前に立つ前に死ぬことがないように
9節です。「以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。」神様は意図的に人を殺した人は必ず死刑にするように言われました。そして、過失で人を殺した人は必ず殺さないように逃れの町を定めて運用するように命令したのです。神様がこのように逃れの町を予め約束したのはなぜでしょうか。今日は逃れの町に隠されている神様の御心を考えたいと思います。
6 大きな過失を起こしたが終わりではない
逃れの町が私たちに示す神様のメッセージは、人を殺してしまった大きな過失を起こしたとしても、それで終わりではない、まだ生きる機会があり、希望があるということです。世の中を生きるなら、生きた年数に相応の様々な過失が発生します。例えば、過って投資した結果、家のお金をゼロにしたり、老後の生活費をオレオレ詐欺に巻き込まれて全部無くしたりします。そのようなことがあれば、生きる力を無くしてしまいます。また、良かれと思った自分の判断が、結果的に家族や同僚に取り返しのつかない重荷を負わせることがあります。それでも、過って隣人を殺してしまった時の重苦しさとは比較にならないことでしょう。そこには、殺人を犯してしまったという罪の呵責だけではなく、復讐への恐れにも苛まれるからです。
そのような人のために神様が定められた逃れの町の律法は、過失を犯さなくては生きることのできない、私たち人間にとって希望であり、命の場所であるのではないでしょうか。これで、終わりではありません、まだ生きる道があります。また、もとの家に戻って生活することもできます。その神様のメッセージが逃れの町にあります。この旧約の逃れの町は、新約になって何になっているのでしょうか。
7 逃れの町、イエス様
マタイによる福音書11章28節から30節です。「28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」新約の時代から今の私たちが住んでいるこの時代まで、目に見える逃れの町は無くなりました。近代の国家には、過失致死についての法律があり、その法律によって命は守られることになっています。しかし、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と仰いました。この御言葉の中に「重荷を負う者」とは誰を意味するのでしょう?一番重い重荷は、繰り返しますが、罪の重荷です。罪の呵責です。イエス様はその重くて負いきれない罪と罪の呵責によってつぶされそうな者を、「だれでもわたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。「だれでも」、「休ませてあげよう」と仰るのです。
罪の重荷を負って肉体の死を目の前にしてイエス様のもとに来たのがヨハネによる福音書の8章に出る姦通の現場で捕らえられた女です。彼女はすべての重荷に押しつぶされそうになっていたでしょう。石で打ち殺される恐怖、恥ずかしさ、罪責感、やり直しが効かないという厳しい現実に打ちのめされたことでしょう。しかし、彼女は自分の意志ではありませんが、イエス様のもとに引っ張り出されて、出て来ることができました。そして、肉体の命の救いだけではなく、魂の救いの恵みまでいただくことになりました。イエス様は仰いました。ヨハネ8:11~「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」。「わたしもあなたを罪に定めない。」と、罪と呵責からの自由を宣言して下さいました。そして。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と、イエス様は新しく生きる道をも与えられました。
もう一人、ルカによる福音書23章のイエス様と一緒に十字架に付けられた強盗はどうだったでしょうか。彼はこの世の命の終わりに近づいてやっと、自分の罪の深刻さに気付きました。十字架刑の苦しみの中で、永遠の罰が迫って来る恐れに飲み込まれていたに違いありません。しかし、彼も自分の意志ではありませんでしたが、幸いに、導かれて、魂の逃れの町、イエス様のもとにいました。イエス様の「34~「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」~」という祈りを聞きました。まさに、自分の事だと思いました。そして、この方が自分の霊と魂のまことの逃れ場であると確信しました。それで彼は、「42~「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願うに至りました。イエス様はこう答えられました。「43「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」」何の権威もないただの人間の言葉ではなく、永遠の命と裁きの権威を有する神の子であるイエス様が、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されたのです。全ての重荷は過ぎ去り、何者にも奪われない安息を受け取ったことでしょう。そして実際に、彼は、永遠の命をいただき、神様の国をいただきました。
8 逃れの町、教会
そして、今、逃れの町の役割を任せられている所が教会です。なぜなら、教会はイエスキリストの体であり、教会の頭はイエスキリストであるからです。教会には魂の逃れの町であるイエス様がいつも共におられます。教会は罪と罪の呵責で心と魂に苦しみを持つ人が誰でも来て、罪を悔い改めて、回復させられて、新しく生まれることのできる、逃れの町です。それで、逃れの町として教会は、罪を憎み、罪を悲しみますが、全ての人を愛し受け入れます。教会は、罪を裁く場所ではありません。逃れの町の住民は、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びます。私たちの教会も、いつもそのようであれますようにと祈ります。
イエス様はヨハネによる13章34節で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られました。そのイエス様の愛はローマの信徒への手紙5章8節の愛、すなわち「5:8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」、その愛です。その愛によって、キリストを信じ、罪の赦しと永遠の命を頂くならば、その瞬間、新しい存在に変えられます。コリントの信徒への手紙二5章17節です。「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」キリストにあって、誰にでも、真の安息と自由と、新しい歩みを頂く道が開かれています。
9.招きと決心の時間
それでは招きと決心の時間を持ちましょう。神様はわたしたちの弱ささえも、ありのままによく御存知です。神様は、私達にどうしようもない過失があったとしても、私達を憐れみ、私達と共に涙を流して下さる、逃れの町、そのものです。神様は、あなたの過失のために十字架で死んで葬られ、三日後によみがえられたイエス様を信じなさい、と仰います。イエス様を信じるならば、誰でも永遠の逃れの町に入って安息を頂くことができます。イエス様の内に逃れる者は安全です。そのイエス様の内に、罪の赦しと、永遠の命と神様の子になる恵みがあります。知恵と宝が全てそこにあります。新しく生きる道が備えられてあり、復活の業が備えられています。詩編103篇3~5節(新改訳)「3主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、4あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、5あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」
私たち人生は僅かに現れてやがって消えて行く霧のようです。たった一度しかない、その短い人生の中で、イエス様に出会って、罪が赦され、永遠の命をいただき、神様の子供になって感謝と讃美を主にささげることほど幸いな人生はありません。今、イエス様を自分の罪のために死んでまた復活された救い主としてお迎えしますように、主イエス様の十字架に逃れますように祝福します。
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれ、すべての面で恵まれ、健やかであるように祝福します。」
合計 32
| 手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
| 32 |
New 謙遜の王
toshibetsu
|
2025.12.07
|
推薦 0
|
閲覧数 1
|
toshibetsu | 2025.12.07 | 0 | 1 |
| 31 |
私の初の聖誕
toshibetsu
|
2025.11.23
|
推薦 1
|
閲覧数 20
|
toshibetsu | 2025.11.23 | 1 | 20 |
| 30 |
逃れの町
toshibetsu
|
2025.11.17
|
推薦 2
|
閲覧数 19
|
toshibetsu | 2025.11.17 | 2 | 19 |
| 29 |
聞いておられる主
toshibetsu
|
2025.11.09
|
推薦 3
|
閲覧数 25
|
toshibetsu | 2025.11.09 | 3 | 25 |
| 28 |
一粒の麦
toshibetsu
|
2025.10.26
|
推薦 3
|
閲覧数 37
|
toshibetsu | 2025.10.26 | 3 | 37 |
| 27 |
羊と山羊
toshibetsu
|
2025.10.21
|
推薦 0
|
閲覧数 40
|
toshibetsu | 2025.10.21 | 0 | 40 |
| 26 |
角笛
toshibetsu
|
2025.10.13
|
推薦 0
|
閲覧数 59
|
toshibetsu | 2025.10.13 | 0 | 59 |
| 25 |
ただ一つ知っていること
toshibetsu
|
2025.10.05
|
推薦 1
|
閲覧数 120
|
toshibetsu | 2025.10.05 | 1 | 120 |
| 24 |
主の祝福があるように
toshibetsu
|
2025.09.28
|
推薦 2
|
閲覧数 72
|
toshibetsu | 2025.09.28 | 2 | 72 |
| 23 |
本当に慰められました
toshibetsu
|
2025.09.22
|
推薦 3
|
閲覧数 88
|
toshibetsu | 2025.09.22 | 3 | 88 |
