メッセージ

あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)

ただ一つ知っていること

投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-10-05 20:08
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251005利別教会メッセージ
御言葉:ヨハネによる福音書9章24節から25節
題:ただ一つ知っていること
先週まではルツ記を読みました。どんな時にも主を信頼し、主の御翼に逃れるならば、神様が確かに慈しみ、慰め、祝福されます。
10月31日には宗教改革記念日を迎えますので、私たちの信仰を省みる機会となれば、幸いです。今日は「ただ一つ知っていること」という題です。
1. 生まれつきの盲人の癒し
今日の御言葉はイエス様が生まれつきの目の見えない盲人を癒されたことが発端となった出来事です。その癒しについては、9章の1節から12節に記録されています。イエス様は神殿の境内を出てエルサレムの街を通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。彼は物乞いをしていました。弟子たちは可哀そうだなと思う一方、両親かこの人か、誰の罪でこの人は生まれつきの盲人になったのか、とイエス様に質問します。イエス様はどちらの罪でもない、「神の業がこの人に現れるためである」と言われ、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗って「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。その人が行って洗うと目が見えるようになりました。彼はまた戻って来ましたが、イエス様はすでにその場所を離れられた後でした。
近所の人々は「これは、座って物乞いをしていた人だ」「いや違う。似ているだけだ」と大騒ぎになりました。本人は「わたしがそうなのです」「その物乞いをしていた者です」と言うと、今度はまた「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言いました。盲人であった彼は11節「彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えました。
2.安息日を守らないから、神のもとから来たものではない
 人々は生まれつき盲人であったが、癒された人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。その日が安息日で、医療行為が彼らの教えによって禁じられていたのに、イエス様が医療行為を行ったのでした。しかし、安息日違反ではあるにもかかわらず、生まれつきの盲人が癒されたということで、これをどう考えるべきか迷ったからでしょう。それは、「目が見えない人を見えるようにしてくださる」のはメシアが来られたしるしであると教えられていたからでした。それで、この生まれつき目の見えない人を見えるようにしてくださったイエス様が、メシアかどうかを、教師であったファリサイ派の人々に教えてもらいたかったのでした。
しかし、ファリサイ派の人々も、目が見えなかったが見えるようになった人に、一般の人々と同じ質問をしました。そして、彼もまた同じ答えを返しました。それで、ファリサイ派の中では結論が出ませんでした。16節です。「ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。」
皆さんはこのファリサイ派の二つの意見を聞いてどう思われますか。彼らは目の前でイエス様による素晴らしい奇跡があったにも関わらず、イエス様がどなたであるか全然見えませんでした。よく考えれば、生まれつきの目の見えない人を見えるようにすることは人間業ではない。もし、神様に遣わされた方、メシアであれば、イエス様は天地万物を造られた方でもあり、第七日目を造られた方で、安息日を決められた方である。だから、安息日の主であり、安息日の規定から自由な方なので、安息日に人を癒しても癒されるのだと合理的な推論ができたでしょう。
だが、彼らは自分たちが正しい、安息日の律法は正しいという律法的な考えに縛られて律法より大きい方を見ることができませんでした。ファリサイ派の彼らは、この奇跡的な癒しを知って、イエス様が人間の目を造り、見えない者を見えるようにし、見える者を見えないようにすることすらできる方であることを悟ることができませんでした。イエス様はこう宣言しておられました。ルカによる福音書4章18、19節「18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」」残念ながら、彼らは安息日を守らない人は神様から遣わされた人ではないという自分たちの考えに縛られて、イエス様を受け入れることができませんでした。
 それだけではありません。彼らは目の見えない人が見えるようになったイエス様の御業を、なかったかのようにしようと動き始めました。それで、その人の両親を呼んで、「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」と聞くのです。脅すようなファリサイ派の質問に両親は「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。~本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」ユダヤ人たちが、イエス様はメシアであると公に言い表す者は会堂から、つまり社会から追放すると決めていたので、両親は恐れて、「本人にお聞きください」と言ったのでした。
3.ただ一つ知っているのは
 24、25節です。「24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」ユダヤ人たちは盲人であった人をもう一度呼び出しました。神の前で正直に答えなさいと言う彼らの顔つきや雰囲気は険悪であったでしょう。なぜなら、このユダヤ人たちが後にイエス様が自分たちの考えのようには安息日を守らなかったという理由で十字架に掛けてしまうからです。そのような雰囲気であったのに、この盲人であった人はどう答えたでしょうか。もう一度25節です。「彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
 この世の高尚な知識も学問も学べなかった人が、険悪な雰囲気に打ち勝って堂々と語ることができた理由は何でしょうか。そうです。ただ一つ、確かに知っていることがあったからです。皆さんにもこの盲人のように、ただ一つ、確かに知っている事実、経験、証がありますか?
4.ただ一つ知って信じているもの
この、かつて盲人であった人が、共同体から追放され、殺されるかもしれない状況で、確かに知っている一つのこと、イエス様によって目が見えるようになったことを、はっきりと主張したように、自分が知って信じていることを命がけで主張し続けた人がいました。それはルターと言う人物です。彼が知って信じていた一つのことはローマの信徒への手紙1章16、17節です。「16わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」
当時、聖書から離れていた教会、聖書を読むことができなかった信徒たちは、天国地獄を決めるのは教皇であり、罪を赦してもらうためには教皇庁が発行する贖宥状を買うことで罪が赦されると思っていました。そんな時代ルターは、罪の赦しは、罪なきイエス様が自分の罪を背負って、十字架で血を流して死んで罪を解決して下さったこと、そして、三日目に復活したことを信じる信仰によるのだと知りました。
当時、財政難に陥っていた教皇庁が、どんな罪でも赦される贖宥状を乱発するのを見たルターは、ヴィテンベルク教会の門に神学論争のために文書を貼り、それがきっかけに宗教改革が始まりました。その日が1517年10月31日です。それから3年6か月後、国王や祭司、貴族、神聖ローマ帝国の上層部が集まり、ルターを尋問します。その時点でルターは既にローマ教皇庁からは破門されていました。その尋問では、ルターが自分の書いた本を全て燃やし、自分の間違いを認めて悔い改め、教皇に赦しを乞うことが要求されました。
その時のルターは、今日の本文の、盲人であった人のようであったでしょう。自分がはっきりと悟って知っていること、ただ一つの真理を主張します。それは、罪人は救い主イエスキリストを信じることによって罪が赦され救われるということでした。彼は「わたしの書いた本に、もしかしたら過ちがあるかもしれませんが、聖書に照らして過ちがあるならば、全部燃やします。しかし、聖書に照らしてみて過ちがないならば、何一つ撤回するつもりはありません。」と堂々と主張しました。このルターによって、「信仰によって救われる」という、聖書に書かれているキリスト教の基本教理がしっかり守られるようになりました。
5.ただ一つ信じていること
先々週、愛するご高齢の姉妹が入院され、突然、面会が制限されるという出来事がありました。牧師である私は、長年、教会に繋がって来られたお一人お一人について、改めて思いを巡らせました。教会に繋がって来た人生の結末が、虚しい滅びであってはいけないということです。様々な事情で、この礼拝に出てくることのできない兄弟姉妹もいらっしゃいますが、どうでしょうか。お一人の例外もなく、御自身の魂にとって最も重要な、「ただ一つのこと」、つまり、永遠の命と永遠の罰を決める、「ただ一つのこと」を知って、肉体の死を迎える準備ができているだろうか、と言うことです。
これは、伝道訓練で繰り返す二つの質問への答えを、しっかりと握っておられるかどうかということです。その質問の一つ目は「今日、召されるのなら、天国で目が覚めると信じますか」というもので、二つ目は、一つ目の質問に、「天国で目が覚める」と答えた方に、「なぜ、天国で目を覚めると信じているのですか」と問うものです。この二つの問いへの答えを、聖書の真理に基づいて持っていないならば、一生懸命であった教会生活すらも、空しい結末となります。いずれ迎える肉体の死は恐ろしいものとなり、死後には第二の死として、火の池に落ちてしまいます。
ヨハネの黙示録の21章8節で「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」」おくびょうな者とは恐れている者です。
なぜ恐れるのでしょうか?それは罪を犯したからだと考える人もいることでしょう。それもあるかも知れません。しかし、聖書はこう語っています。ヨハネの手紙一4章16節から18節です。「16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」つまり、神の愛の内に留まらないならば、どうがんばっても、その人には恐れがつきまとうことです。しかし、神の愛に留まるならば、神の愛が恐れを完全に締め出すので、恐れから完全に開放されます。神の愛とは、独り子イエスキリストの命を代価として与えて下さった永遠の愛です。
 今日のメッセージは「ただ一つ知っていること」という題です。皆さんは、ただ一つ知っているとしたら、何を知っていると仰れるでしょうか。私たちが、「イエスキリストを通してはっきりと示された神様の愛」を知っていて、決してそこから離れることもなく、忘れることもないようにと願います。この「一つのこと」は、私たちを永遠の滅びの死から、肉体の死という過程の恐れから、この世の心配のすべてから、私たちを完全に自由にする力であり、あらゆる恐れを締め出す力であるからです。
6.招きと決心
それでは、招きと決心の時間を持ちましょう。盲人であった人はただ一つ知っていることで死や、社会からの追放や、権力者たちの脅しを前にしても堂々と自分の信仰と体験を証しすることができました。ルターも信仰によってのみ救われるという聖書の真理を知って信じ、このただ一つの救いの道を、命を掛けて守りました。私たちにもただ一つ知って信じるべきことがあります。それは神様の愛です。神様は、全ての人がイエス様を信じて、救われることを願っています。テモテの手紙一2章4節です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」この時間、神様の愛であるイエス様を自分の罪のための救い主として受け入れますようにお勧めします。ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」この告白が御自身の告白となりますように祝福します。
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。今、共に祈られた皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれているように、皆さんがすべての面で恵まれ、健康であるように祝福します。」
合計 28
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一粒の麦
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羊と山羊
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角笛
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ただ一つ知っていること
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主の祝福があるように
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本当に慰められました
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22
母ナオミ
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21
信徒の証 何をして欲しいのか
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神は愛
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無駄にならない
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