メッセージ

あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)

角笛

投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-10-13 09:50
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251012利別教会メッセージ
御言葉:エゼキエル書33章1節から11節
題:角笛
 先週は生まれつきの盲人であった人が、視力を回復した証を握って、どんな脅威にも負けずに生きた信仰を学びました。神様は愛です。永遠に変わることのない神様の愛を確かに知って、神様の愛の内にとどまるならば、死の恐れからの自由さえ与えられます。愛はあらゆる恐れを追い出すからです。神様の愛の真理がいつも私たちと共にありますように祈ります。今日は角笛と言う題で、使命について学びたいと思います。
1. 見張りの務め
エゼキエル書33章は神様の正義と公義、恵みと裁きについて学ぶことができる重要な御言葉です。預言者エゼキエルに神様の御言葉が臨まれました。1節、2節です。「1主の言葉がわたしに臨んだ。2「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。」その内容は、イスラエルの民に語るもので、ある国のたとえでした。
神様がある国に向かって剣を送る時のことです。聖書を見ると、神様はイスラエルの民だけではなく他の国々を戒める時にほかの民族を用いられることがあります。ある国に、他の民族が侵略してくる事態が起きました。それで、その国では、彼らの中から一人の人を選んで見張りとします。見張りの務めは何でしょうか。3節です。「3彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。」見張りですから、敵が攻めて来ないかじっと見張って、敵が来たら、すぐに角笛を吹き鳴らして警告します。
4節から6節です。「4角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。5彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。6しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。」これは見張りの務めの喩えですが、皆さんは見張りの大切さについて共感されたでしょうか。自分が軍隊にいて見張りをしたことはありますが、剣が臨むような戦争中ではありませんでしたので、見張りの大切さは頭では分かりましたが、体験はしていません。しかし、父の話を聞くと、見張りの働きに何かの問題があって、結果として、そのテントの軍人が全員、北朝鮮の軍人に殺されたという話を、父が聞き、私も父から聞いたことがあります。戦闘で負けたり何かの作戦で失敗する指揮官は赦されても、見張りに失敗した指揮官は赦されないという言葉が韓国の軍隊にはあります。そのくらい見張りの仕事は甚大な影響を与えるものです。そして、その見張りが見張って敵を見て角笛を吹いたならば、見張りの役命はそれで終わりとなり、後はその角笛の音を聞いた者たちの責任であるという神様の言葉でした。
2. イスラエルの家の見張り、預言者エゼキエル
7節です。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。」見張りの大切さと役割を説明された神様は預言者エゼキエルに「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした」と宣言します。それで、見張りである預言者エゼキエルは「神様の口から言葉を聞いたなら、神様の警告をイスラエルの民に伝えねばならない」のだと神様は言われました。
イスラエルの見張りとして指名された預言者エゼキエルがイスラエルの民に伝える警告、角笛の音は何でしょうか。神様は優しくたとえで教えられます。8節、9節です。「8わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない。』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。9しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るように警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」神様、見張りの責任は重たいですねと言われる方もいるかもしれませんが、そのくらい見張りの責務は重く、大切な務めだと、語られました。永遠の命に関わる責務であるからです。ただし、悪人がいたとして、その人に、「あなたはこのままでは必ず死んでしまいますから、悪の道から立ち帰りなさい」と言うまでがエゼキエルの責任です。
3.目前に迫った滅び
見張りの大切さ、見張りの務めの重さのたとえの後に神様はイスラエルの家、民の今の心を表現されました。10節です。「10人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。」
彼らは「我々の背きと過ちが我々の上にあり」その罪によって「我々はやせ衰え」ている。どうしても生きることができないと、悲観的で、絶望的になっていました。イスラエルの民はバビロニアの侵略を受けていても神様がおられるエルサレムの神殿がある限り、絶対にイスラエルは滅びない、負けないと思っていました。しかし、今、エルサレムの状況は自分たちの考えとは異なり、滅びが現実として、目の前に迫っていました。実際、滅びは現実となり、21節では、エルサレム神殿を含む都エルサレムが、完全に滅びてしまったという知らせが、もたらされています。
追い詰められ逃げ場のないイスラエルの民は、自分たちの罪、すなわち、預言者イザヤ、エレミヤなどなどを通して語られた神様の御言葉を無視して、神様に背いてきた過ちに心が刺されました。今更過去に戻ることもできません。そして、「わたしたちはもうだめだ。こうなってしまったのだから、生きることができない」と自暴自棄になり、落ち込んでしまいました。
イスラエルの家、イスラエルの民がこのように考えているように、多くの人が自分の過失や弱さが現わされ、困難な状況で弱り果ててしまった時、どうしてこれ以上生きることができるだろうかと思うことでしょう。あるいは自暴自棄になり、鬱になり、命を自ら断つことすら考えます。エルサレムの神殿が廃墟になったときのユダヤ人の心がそうでした。
4.どうして死んでよいだろうか
人は、自分の来た道を省みて、過失を悟り、罪深さに気づくとき、深い絶望に陥ると、もう死んでも構わない、このまま生きているよりは死ぬ方が、まだましだと思うことでしょう。しかし、過去にどんな過失や罪があったとしても、また、今現在、どんな状況に直面しているとしても、自暴自棄になり、諦めるしかない状況のように見えても、神様の御前では、決して命を諦めてはいけない、諦めて幸せになることはない、と神様は仰っておられます。
11節を読みましょう。「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。」というものでした。神様は「そうではない、たとえ悪人であっても、その人が死ぬのを私は喜ばないし、私の御心ではない」と仰います。
神様の御心は悪人が死ぬことではありません。なぜでしょうか。それは神様が永遠に生きておられる命の主であるからです。そして、悪は憎むけれども、その人を愛しておられるからです。なので、むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜びます。なので、過度な自責と諦めも、自殺も、神様は喜ばれません。神様は切なる思いでイスラエルの家に声を掛けます。「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」そして、12節の中に「~また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。~」と約束されました。本当に感謝、感謝なことです。私たちは皆、弱く、過失の多い者です。罪を犯さないで生きることのできない者です。しかし、生きておられ、どんな罪びとも立ち帰って生きることを切に願っておられる神様の御前で、聞くに早く、悔い改めに早く、キリストの血潮できよめられながら生きる、恵みの内に歩み続けますように祈ります。
5.角笛
今日のメッセージの題は角笛です。私たちの家族が北海道に来て初めて行った教会が旭川の豊岡教会です。豊岡教会が発行する雑誌の名前が角笛です。今日の御言葉を読みながら、豊岡教会だけではなく、この世のすべてのキリスト教の教会は、神様によって見張りの務めとして召されたものであると思いました。教会が見張りであって、教会が吹き鳴らす角笛の音は何にならなければいけないのでしょう。それが福音です。聖書の御言葉の中でその福音を一番良く示されたのがヨハネによる福音書3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉に、わたしたちが福音を語る理由があります。それは滅びと永遠の命があることです。滅び、永遠の滅び、聖書はそれを火と硫黄の池、第二の死と言う地獄のことが確かにあります。また、すべての人は罪を犯したので、滅びに行く運命であることも聖書は語っています。その滅びから人はどうすれば救われて永遠の命を得ることができるのでしょうか。独り子イエスキリストを信じることによってのみ救われます。罪が一つもない神様の独り子、イエス様が私たちの過去と現在と未来の罪を全部背負って十字架で血を流して死んでくださったからです。このイエス様の成し遂げられた罪からの贖いを信じ受け入れることによって、人は罪の赦しと永遠の命をいただき、神様の子になるからです。でも、信じない人は、自分の罪がまた自分にあるので、その罪によって裁きを受け、永遠の滅びの罰を受けることになります。私たちの教会が神様に任命された見張りの務めを、最後の日まで、真っ直ぐに全うできますように祈ります。
 そして、もう一点、教会がこの世の中の見張りであるように、私たち一人一人は家庭と家族の見張りとしての務めにも任命されています。私たちが時にかなって角笛を鳴らさなければ、夫や妻、子供と孫、ひ孫は彼らの罪によって滅びに行くことになります。また私たちも見張りの使命を全うしないで天国に行ったならば、恥ずかしい救いとなるでしょう。福音の角笛は生きている間に吹かなければなりません。後でやろう、後で吹こうと思って、一度も福音を聞くことなくこの世を去って行くのは、本当に可哀そうでもったいないことではありませんか。私と皆さんが神様の時に、神様が喜ばれる命の福音の角笛を吹き鳴らせますように祈ります。
6.招きと決心
それでは、招きと決心の時間を持ちましょう。宗教改革で私たち一人一人が祭司、牧師であること、イエス様を信じる者は祭司、牧師であることになっています。イエス様は自分の命を捨てて、贖われた私たち一人一人がイエス様のような小さいイエスとして生きることを望んでおられます。私と皆さんが今日の御言葉のように、見張りとして、祭司として、小さいイエスとして生きますように祝福します。神様は私たちを通して私たちの家族、子供、孫、ひ孫が立ち帰ってイエス様を信じることを願っています。テモテの手紙一2章4節です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」この時間、神様の愛であるイエス様を自分の罪のための救い主として受け入れますようにお勧めします。ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」この告白が御自身の告白となりますように祝福します。
共に祈りましょう。祈ります。
合計 28
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ただ一つ知っていること
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本当に慰められました
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信徒の証 何をして欲しいのか
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