メッセージ
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)
羊と山羊
投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-10-21 18:07
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251019利別教会メッセージ
御言葉:マタイによる福音書25章31節から46節
題:羊と山羊
先週は角笛という題でした。見張りである私たちは、福音の角笛を折よく吹き鳴らせますように祈ります。福音の角笛は、暑い夏のコップ一杯の冷たい水のようであり、寒い冬の暖かい隠れ家のように、そこに逃れる者に安らぎを与え、生きる道を開いてくれます。教会や家庭や職場で、私たちを用いて下さり、イエス様がご自身の命に代えて愛しておられるお一人お一人が、命を得ますように祈ります。今日は羊と山羊という題でイエス様の再臨の時の裁きについて御言葉に聞きたいと思います。
1. すべての民族を裁く
31、32節です。「31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、」日本中の多くの人が聖書を読んだことがないので、この世の終わりはどうなるか関心がないのかもしれないと思う一方、日本の多くの方々が見る漫画や映画の中にはこの世の終わりをテーマにした作品があります。また、この世では、聖書を読んだことのない人の目にも、終わりの日が近づいているように感じさせる出来事が起こっています。
イエス様は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」と言われました。イエス様がこの世にみどり子として来ることについて旧約に多く預言されていますが、旧約の預言書には既にこの世に生まれ、十字架で死んで、復活して天に昇られたイエス様が再臨することも預言されています。ゼカリヤ書12章9、10節です。「9その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。10わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」その日とは、最後のこの世の終わりの日、イエス様の再臨の日です。その時、主なるイエス様はイスラエルの住民に憐れみと祈りの霊を注ぎ、自分たちが十字架に付けて刺し貫いたイエス様のことで嘆き、悲しむようになります。今のイスラエルはまだまだイエス様のことで嘆き悲しむ人は少ないですが、悔い改めてイエス様を信じる人々が増えていると聞いています。なので、最後の日が近づいていることでしょう。
その最後の時代の最後の時、イエス様は聖書に書かれているとおり、主の主、王の王として来られます。どこに来られるのでしょうか。ゼカリヤ書14章4節の前半です。「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。~」とあります。預言のとおりにイエス様が来られて何をされるでしょうか。イエス様はすべての国の民を裁かれます。その裁かれる様子を「羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け」る、と説明しています。なぜ、羊と山羊を分けるように分けるのでしょうか。後にこのことについて考えたいと思います。
2. 羊を右に、山羊を左に
33節です。「羊を右に、山羊を左に置く。」羊飼いは羊と山羊を一緒に飼っていたし、いるようです。その理由は、山羊は大きくなった草の葉を食べるが、羊は全部食べてしまうので、牧草を保護するためというのが一つ、また険しい荒れ野を移動する時に、羊は怖がりで動かない時でも、山羊は険しい道をものともせず行くので、羊3匹に山羊一匹の比率で飼っていたようです。しかし、夕方になって野原から羊の囲いに来ると羊飼いは羊と山羊を分けました。山羊の攻撃的な習慣があって羊を保護するためであったからだと思います。しかし、なぜ羊を右、山羊を左に置いたのでしょうか。これを右利きが良い、左利きが悪い、などと誤解しないでください。聖書で右は神様に近い、位高い位置、力強いことを示します。ヘブライ人への手紙12章2節の後半です。「~このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」とあるように、イエス様が神様の右にお座りになり、神様に一番近い、位の高い、強い、尊ばれていることを示します。
3. わたしの父に祝福された人たち
34節です。「34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』王である人の子、再臨したイエス様は、右側にいる人たちを「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と褒められました。そして祝福されました。
その理由が、35、36節です「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」王であるイエス様が飢えた時に食べさせ、のどが渇いた時に飲ませ、旅路に宿を貸し、裸の時に着せ、病気中や牢獄中に尋ねて来たからであるとしました。王であるイエス様にこのような働きをしたならば、王から祝福を受けるのにふさわしい人たちであるように思われます。
4.最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと
しかし、この王の褒め言葉を聞いた右側にいる人たちはどう反応したでしょうか。37節から39節です。「37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」聖書は右側にいた人たちを正しい人たちだと言います。その王の右側の人、正しい人たちの答えは「いつ、差し上げ、貸し、着せ、お訪ねしたでしょうか」でした。一言で、我らはしってない、やってないです」という答えでした。正しい人とは、してないことはしてない、やったことはやったと言う人です。そしてご存知のように、イエス様が誰から食べ物や飲み物、宿や服、そして、見舞いや面会が必要な病気や投獄生活を送った事は、ありません。投獄されたのも夜に捕まって、尋問を受けるまでの時間ですが、誰もイエス様の面会に行っていません。どういうことでしょうか。
40節です。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」王であるイエス様は、イエス様に直接してくれたことではなく、イエス様の兄弟姉妹である最も小さい者にしてあげたことが、イエス様にしてくれたことなのよ。それをわたしが全部覚えて見ていたのよと言われました。先生、一番小さい者はだれですか?と聞く方もいるでしょう。誰でも、父なる神様に祝福され、天地創造の時から用意されている国を受け継ぎたいでしょう。一番小さい者とは、私の愛、私の奉仕、私の犠牲、私の忍耐を必要とする方のことです。時と場所と状況によって変わります。イエス様はその一番小さい者にしたのは、イエス様御自身にしたことであると言われました。私と皆さんがいつも、教会の内外で、家族の内外で、遣わされた所で、神様の愛に生きられますように祈ります。必ず犠牲を伴うので、痛みを伴うかも知れませんが、必ず同時に、この世のものではない、天の喜びが、上から注がれ、そして、御霊の実の実りが人を生かしているのを目の当たりに見ることでしょう。本当に、慰められることでしょう。
5. 呪われた者ども、永遠の火に入れ
さて、41節です。「41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者とも、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』」イエス様は左側にいた人たちに「呪われた者ども」と言われました。裁きに中間地帯はありません。祝福か呪いかの、どちらかです。
この左側の人たちへの言葉が42、43節です。「42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』」あなたたちは「食べさせず、飲ませず、貸さず、着せず、訪ねてくれなかった」と言われました。その王であるイエス様の話に彼らは何と答えたでしょうか。44節です。「44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』」「いつわたしたちは、お世話をしなかったでしょうか」、お世話をしました、或いは機会がありませんでしたと主張します。
6. 最も小さい者の一人にしなかったのは
45節、46節です。「45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」左側にいた人たちは、結局は自分の命のために、自分の判断、自分の考え、自分の哲学、自分の経済学に忠実であったのでしょう。それが、正しいことであり、イエス様に仕えることでもあると思ったのでしょう。しかし、彼らはそのことによって裁きを受けることになりました。一生懸命生きたのに、勘違いしていたのです。
7. 勘違い
イエス様は、世の終わりについて教えられた時、勘違いして自分の考えで生きることのないように、繰り返し警告されました。マタイによる福音書の24章の45節から51節の忠実な僕と悪い僕の喩えの中、悪い僕は「48しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、49仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。~」とあります。主人は直ぐに帰って来るのに、遅いと勘違いしました。また、タラントンのたとえ、マタイ25章24節でも、「24一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、』」と自分の勘違いのまま、自分の考えを先にして、行動しました。五人の愚かなおとめは、花婿はそんなに遅く来ない、このくらいの油で大丈夫だと思いました。その結果は皆さんも御存知でしょう。マタイ25章12節「しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」
8. 羊と山羊
今日のメッセージの羊と山羊は、右と左に分けられて裁かれ、永遠の命と永遠の罰へと分かたれてしまいました。裁きを受ける右側の人たちも左側の人たちも王であるイエス様に共に「主よ」と言いました。つまり、この喩え話は、自分がクリスチャンであると思っている人々が、羊と山羊に分けられるという話です。それ以外の人は登場しません。自らを省みて、気の引き締まる思いがします。
羊と山羊の違い、右側の人たちと左側の人たちの違いは何でしょうか。それは、勘違い、つまり自分の考えで生きるかどうか、ではないかと思います。自分の家でも山羊を飼ったことがあるので少し覚えていますが、山羊は、飼い主を連れて先に行きます。家に帰ることもありますが、ほとんどは自分が行きたい所に走って行きます。また、時として、飼い主を攻撃する面もあります。このように、自分の考えを何よりも大事にすることで、左側の人たちはイエス様の愛から離れてしまいました。
先生、自分の考えを少し大切にしただけで、それそんなに大きな罪になって、裁かれるのですか?と聞く方もいると思います。しかし、荒れ野には、事故に遭い、猛獣の餌食になった多くの山羊の骨が見られると言います。この世の終わりが近づくにつれ、また人生の終わりが近づくにつれて、自分の考えではなく、主の後ろ、主の御心に従って生きるように助けてください。
ところで、山羊も、イエス様に従おうと決心してイエス様の御前に来たはずでした。でも、従えませんでした。行動が伴いませんでした。つまり、一人の魂のために、愛し、忍耐し、自分が犠牲になり、自分の考えを捨てて、自我を放棄することができませんでした。神様の力が現わされませんでした。福音の力が現わされませんでした。なぜでしょうか?
私達がいつも、イエス様を通して示された神様の愛に留まれますように祈ります。取るに足らない、虫けらのような、生まれながらの、救いようのない、病んで弱り果てた自分のために、イエス様が辱められ、痛めつけられ、血を流され、死んでよみに下られ、完全に闇に葬られて罪の代価を払って下さったその愛を、毎日毎時、朝に夕に、嚙みしめられますように祈ります。その流された血潮によって、今も、罪咎過失が洗い清められる恵みに浴し続けますように祝福します。そのような日々の中で、自分よりも、少しは、ましな、一人の魂のために、チャンスとして備えられた恵みの十字架を、感謝と喜びをもって担えますように、祝福して祈ります。
8.招きと決心
それでは、招きと決心の時間を持ちましょう。私たち人生について、聖書は僅かに現れてやがって消えて行く霧であるとします。霧のような短い人生の中で、イエス様に出会って、罪が赦され、永遠の命を得、自分の考えではなく、神様の御心に従って生きるより幸いな人生はありません。今、イエス様を自分の罪のために死んでまた復活された救い主としてお迎えしますように祝福します。使徒言行録16章31節は「~主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と約束されています。
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。今、共に祈られた皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれているように、皆さんがすべての面で恵まれ、健康であるように祝福します。」
御言葉:マタイによる福音書25章31節から46節
題:羊と山羊
先週は角笛という題でした。見張りである私たちは、福音の角笛を折よく吹き鳴らせますように祈ります。福音の角笛は、暑い夏のコップ一杯の冷たい水のようであり、寒い冬の暖かい隠れ家のように、そこに逃れる者に安らぎを与え、生きる道を開いてくれます。教会や家庭や職場で、私たちを用いて下さり、イエス様がご自身の命に代えて愛しておられるお一人お一人が、命を得ますように祈ります。今日は羊と山羊という題でイエス様の再臨の時の裁きについて御言葉に聞きたいと思います。
1. すべての民族を裁く
31、32節です。「31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、」日本中の多くの人が聖書を読んだことがないので、この世の終わりはどうなるか関心がないのかもしれないと思う一方、日本の多くの方々が見る漫画や映画の中にはこの世の終わりをテーマにした作品があります。また、この世では、聖書を読んだことのない人の目にも、終わりの日が近づいているように感じさせる出来事が起こっています。
イエス様は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」と言われました。イエス様がこの世にみどり子として来ることについて旧約に多く預言されていますが、旧約の預言書には既にこの世に生まれ、十字架で死んで、復活して天に昇られたイエス様が再臨することも預言されています。ゼカリヤ書12章9、10節です。「9その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。10わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」その日とは、最後のこの世の終わりの日、イエス様の再臨の日です。その時、主なるイエス様はイスラエルの住民に憐れみと祈りの霊を注ぎ、自分たちが十字架に付けて刺し貫いたイエス様のことで嘆き、悲しむようになります。今のイスラエルはまだまだイエス様のことで嘆き悲しむ人は少ないですが、悔い改めてイエス様を信じる人々が増えていると聞いています。なので、最後の日が近づいていることでしょう。
その最後の時代の最後の時、イエス様は聖書に書かれているとおり、主の主、王の王として来られます。どこに来られるのでしょうか。ゼカリヤ書14章4節の前半です。「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。~」とあります。預言のとおりにイエス様が来られて何をされるでしょうか。イエス様はすべての国の民を裁かれます。その裁かれる様子を「羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け」る、と説明しています。なぜ、羊と山羊を分けるように分けるのでしょうか。後にこのことについて考えたいと思います。
2. 羊を右に、山羊を左に
33節です。「羊を右に、山羊を左に置く。」羊飼いは羊と山羊を一緒に飼っていたし、いるようです。その理由は、山羊は大きくなった草の葉を食べるが、羊は全部食べてしまうので、牧草を保護するためというのが一つ、また険しい荒れ野を移動する時に、羊は怖がりで動かない時でも、山羊は険しい道をものともせず行くので、羊3匹に山羊一匹の比率で飼っていたようです。しかし、夕方になって野原から羊の囲いに来ると羊飼いは羊と山羊を分けました。山羊の攻撃的な習慣があって羊を保護するためであったからだと思います。しかし、なぜ羊を右、山羊を左に置いたのでしょうか。これを右利きが良い、左利きが悪い、などと誤解しないでください。聖書で右は神様に近い、位高い位置、力強いことを示します。ヘブライ人への手紙12章2節の後半です。「~このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」とあるように、イエス様が神様の右にお座りになり、神様に一番近い、位の高い、強い、尊ばれていることを示します。
3. わたしの父に祝福された人たち
34節です。「34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』王である人の子、再臨したイエス様は、右側にいる人たちを「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と褒められました。そして祝福されました。
その理由が、35、36節です「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」王であるイエス様が飢えた時に食べさせ、のどが渇いた時に飲ませ、旅路に宿を貸し、裸の時に着せ、病気中や牢獄中に尋ねて来たからであるとしました。王であるイエス様にこのような働きをしたならば、王から祝福を受けるのにふさわしい人たちであるように思われます。
4.最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと
しかし、この王の褒め言葉を聞いた右側にいる人たちはどう反応したでしょうか。37節から39節です。「37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」聖書は右側にいた人たちを正しい人たちだと言います。その王の右側の人、正しい人たちの答えは「いつ、差し上げ、貸し、着せ、お訪ねしたでしょうか」でした。一言で、我らはしってない、やってないです」という答えでした。正しい人とは、してないことはしてない、やったことはやったと言う人です。そしてご存知のように、イエス様が誰から食べ物や飲み物、宿や服、そして、見舞いや面会が必要な病気や投獄生活を送った事は、ありません。投獄されたのも夜に捕まって、尋問を受けるまでの時間ですが、誰もイエス様の面会に行っていません。どういうことでしょうか。
40節です。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」王であるイエス様は、イエス様に直接してくれたことではなく、イエス様の兄弟姉妹である最も小さい者にしてあげたことが、イエス様にしてくれたことなのよ。それをわたしが全部覚えて見ていたのよと言われました。先生、一番小さい者はだれですか?と聞く方もいるでしょう。誰でも、父なる神様に祝福され、天地創造の時から用意されている国を受け継ぎたいでしょう。一番小さい者とは、私の愛、私の奉仕、私の犠牲、私の忍耐を必要とする方のことです。時と場所と状況によって変わります。イエス様はその一番小さい者にしたのは、イエス様御自身にしたことであると言われました。私と皆さんがいつも、教会の内外で、家族の内外で、遣わされた所で、神様の愛に生きられますように祈ります。必ず犠牲を伴うので、痛みを伴うかも知れませんが、必ず同時に、この世のものではない、天の喜びが、上から注がれ、そして、御霊の実の実りが人を生かしているのを目の当たりに見ることでしょう。本当に、慰められることでしょう。
5. 呪われた者ども、永遠の火に入れ
さて、41節です。「41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者とも、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』」イエス様は左側にいた人たちに「呪われた者ども」と言われました。裁きに中間地帯はありません。祝福か呪いかの、どちらかです。
この左側の人たちへの言葉が42、43節です。「42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』」あなたたちは「食べさせず、飲ませず、貸さず、着せず、訪ねてくれなかった」と言われました。その王であるイエス様の話に彼らは何と答えたでしょうか。44節です。「44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』」「いつわたしたちは、お世話をしなかったでしょうか」、お世話をしました、或いは機会がありませんでしたと主張します。
6. 最も小さい者の一人にしなかったのは
45節、46節です。「45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」左側にいた人たちは、結局は自分の命のために、自分の判断、自分の考え、自分の哲学、自分の経済学に忠実であったのでしょう。それが、正しいことであり、イエス様に仕えることでもあると思ったのでしょう。しかし、彼らはそのことによって裁きを受けることになりました。一生懸命生きたのに、勘違いしていたのです。
7. 勘違い
イエス様は、世の終わりについて教えられた時、勘違いして自分の考えで生きることのないように、繰り返し警告されました。マタイによる福音書の24章の45節から51節の忠実な僕と悪い僕の喩えの中、悪い僕は「48しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、49仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。~」とあります。主人は直ぐに帰って来るのに、遅いと勘違いしました。また、タラントンのたとえ、マタイ25章24節でも、「24一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、』」と自分の勘違いのまま、自分の考えを先にして、行動しました。五人の愚かなおとめは、花婿はそんなに遅く来ない、このくらいの油で大丈夫だと思いました。その結果は皆さんも御存知でしょう。マタイ25章12節「しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」
8. 羊と山羊
今日のメッセージの羊と山羊は、右と左に分けられて裁かれ、永遠の命と永遠の罰へと分かたれてしまいました。裁きを受ける右側の人たちも左側の人たちも王であるイエス様に共に「主よ」と言いました。つまり、この喩え話は、自分がクリスチャンであると思っている人々が、羊と山羊に分けられるという話です。それ以外の人は登場しません。自らを省みて、気の引き締まる思いがします。
羊と山羊の違い、右側の人たちと左側の人たちの違いは何でしょうか。それは、勘違い、つまり自分の考えで生きるかどうか、ではないかと思います。自分の家でも山羊を飼ったことがあるので少し覚えていますが、山羊は、飼い主を連れて先に行きます。家に帰ることもありますが、ほとんどは自分が行きたい所に走って行きます。また、時として、飼い主を攻撃する面もあります。このように、自分の考えを何よりも大事にすることで、左側の人たちはイエス様の愛から離れてしまいました。
先生、自分の考えを少し大切にしただけで、それそんなに大きな罪になって、裁かれるのですか?と聞く方もいると思います。しかし、荒れ野には、事故に遭い、猛獣の餌食になった多くの山羊の骨が見られると言います。この世の終わりが近づくにつれ、また人生の終わりが近づくにつれて、自分の考えではなく、主の後ろ、主の御心に従って生きるように助けてください。
ところで、山羊も、イエス様に従おうと決心してイエス様の御前に来たはずでした。でも、従えませんでした。行動が伴いませんでした。つまり、一人の魂のために、愛し、忍耐し、自分が犠牲になり、自分の考えを捨てて、自我を放棄することができませんでした。神様の力が現わされませんでした。福音の力が現わされませんでした。なぜでしょうか?
私達がいつも、イエス様を通して示された神様の愛に留まれますように祈ります。取るに足らない、虫けらのような、生まれながらの、救いようのない、病んで弱り果てた自分のために、イエス様が辱められ、痛めつけられ、血を流され、死んでよみに下られ、完全に闇に葬られて罪の代価を払って下さったその愛を、毎日毎時、朝に夕に、嚙みしめられますように祈ります。その流された血潮によって、今も、罪咎過失が洗い清められる恵みに浴し続けますように祝福します。そのような日々の中で、自分よりも、少しは、ましな、一人の魂のために、チャンスとして備えられた恵みの十字架を、感謝と喜びをもって担えますように、祝福して祈ります。
8.招きと決心
それでは、招きと決心の時間を持ちましょう。私たち人生について、聖書は僅かに現れてやがって消えて行く霧であるとします。霧のような短い人生の中で、イエス様に出会って、罪が赦され、永遠の命を得、自分の考えではなく、神様の御心に従って生きるより幸いな人生はありません。今、イエス様を自分の罪のために死んでまた復活された救い主としてお迎えしますように祝福します。使徒言行録16章31節は「~主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と約束されています。
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。今、共に祈られた皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれているように、皆さんがすべての面で恵まれ、健康であるように祝福します。」
合計 28
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一粒の麦
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羊と山羊
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角笛
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ただ一つ知っていること
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本当に慰められました
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母ナオミ
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