メッセージ

あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)

私の初の聖誕

投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-11-23 19:59
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251123利別教会メッセージ
御言葉:イザヤ書1章18節から20節
題:私の初のクリスマス
先週は逃れの町という題でした。過失を犯さずに歩むことのできない私たちのために逃れる場所、イエス様を与えて下さいました。私たちも私たちの教会も、すべての疲れや罪咎の重荷を負う人々のための、よき逃れ場として用いていただけますように祝福します。今日は私の初のクリスマスという題で、私自身の証を交えて、聖誕の御言葉を分かち合いたいと思います。
1. 論じ合おうではないか
イザヤ書は旧約の福音書とも言える預言書です。イエス様について一番詳しく預言されています。また、イエス様も一番多く引用された聖書です。そのイザヤ書の1章の18節で、神様は「論じ合おうではないか」と言われました。18a節です。「論じ合おうではないか、と主は言われる。」私たちも誰かに「一緒に話そう」と声を掛ける時があるでしょう。初めて会った人には言いにくい言葉です。親しい人や、知り合いに向ける言葉です。特に、親や、先生などの大人が、何か問題を抱えている青少年に声を掛ける時のような話し方です。
2. お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなる
神様が論じ合おうとした内容は何でしょうか。18節「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。」神様が言いたかったのは、あなたには緋のような罪、紅のような罪があるということでしょうか。そうではありません。神様は罪があると指摘したいわけではありません。18節からにじみ出て来る神様の思いは、「たとえあなた方にどうしようもないような罪があったとしても、それで終わりではない。生きる道がありますよ、白くなる方法さえありますよ、しみも汚れもない者のようになる方法がありますよ、罪とその結果を解決する方法がありますよ」という思いです。だから論じ合おうと仰ったのだとわかります。
3.頭から足の裏まで、満足なところはない
もちろん、彼らの罪について、指摘されなかったわけではありません。何となく責め立てる神様ではありません。病気でも車の故障でも、正確な診断が必要です。
彼らの罪は何だったのでしょう。イザヤ書1章2~4節です。「2天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。3牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。4災いだ、罪を犯す国、咎の重い民 悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。」一言で言うと主なる神様を離れたことでした。
そして、真の主なる神様を離れて背いた結果が、イザヤ書1章5~6節です。「5何故、お前たちは背きを重ね なおも打たれようとするのか 頭は病み、心臓は衰えているのに。6頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷はぬぐわれず、包まれず油で和らげてもらえない。」神様から離れた結果、「頭から足の裏まで、満足なところはない」、悲惨な痛々しい状況になりました。歴史を見るとイスラエルとユダは異邦の神々を拝み、仕えてその異民族の侵略を受けて大変苦しい年月を送りました。次々と異民族が来たので、打ち傷、鞭のあと、生傷が癒される間もなく、傷だらけでした。
もし、神様が憐れまずに裁きを行ったならば、どうなってしまったでしょう。イザヤ1章9節で「もし、万軍の主がわたしたちのために わずかでも生存者を残されなかったなら わたしたちはソドムのようになり ゴモラに似たものとなっていたであろう。」先生、ソドムとゴモラは裁かれたでしょう。なのに、なぜ、イスラエルは裁かれなかったでしょうか。神様はえこひいきされるのでしょうか。差別するのでしょうかと聞く人もいるかもしれません。創造主である神様が、ニネベの人々と家畜たちに向けられた忍耐と慈しみが、ヨナ書に記されています。同じように、ソドムとゴモラにも、忍耐と憐れみを尽くされたはずです。しかし、神様がイスラエルの民と契約を結んでいたという点において、イスラエルはソドムやゴモラとは異なりました。
その最新の契約がソロモン王の時に更新されました。歴代誌下7章13、14節です。「13わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、14もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」先生、けれどもイスラエルの民はひざまずいて祈ったり、神様の顔を求めたり、悪を捨てて立ち帰ることをしていないのではありませんかと言う方がいると思います。そうです。そのとおりです。イスラエルが、イザヤやエレミヤなどの預言者を通して語りかけられた神様の御声に背いたので、バビロンに捕囚にされました。それでも神様は契約を守るために、民を導き、遂には神様の御顔を求めて立ち返らせ、罪を赦して大地をいやすという御言葉を実現されました。その契約と計画を前提に、あなたたちの緋のような罪は雪のように白くなる、だから、論じ合おうと仰ったのです。
4. 雪のように白くなる
神様は罪が雪のように白くなって赦される御業を、具体的に約束されました。新約聖書に繋がる契約です。人種と民族を超えて全ての人のために与えられた、完全な救い契約、イエスキリストについての契約です。神様はそのしるしを、イスラエルの民に示されました。イザヤ7章14節、「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」。乙女が男の子を生み、その名がインマヌエルとなること、それがしるしでした。しるしというのは、それだと特定できるように付けておくものです。同じように、人類の歴史で、普通であればあり得ない「そのこと」が起こったら、それが救いの契約の成就だと、しるしを知っている人には間違いなく分かるものでした。
神様は、このインマヌエルとして来られる男の子、イエスキリストが、後にどのようにして罪の問題を解決し、雪のように白くするのかについても、預言者イザヤを通して具体的に説明されました。イザヤ書53章4節から6節です。「4彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれた、と。5彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」
イザヤ書が記されて700年後、この預言のとおりに、イエスキリストがこの世に罪なき人として生まれ、神様が喜ばれる、罪のない人生を送り、十字架に掛けられて血を流して死なれました。全ての人の救いのために、私たちの罪と咎と病を背負って死なれたのです。そして、また預言の通りにイエス様は三日目に死者の中からよみがえられました。それは、イエスキリストの十字架と復活が、神様の契約によるものであり、与えられる救いが完全なものであることを確証しています。
私たちは、あの時のあの失敗は、あの罪は、もう元に戻せないのだから、その赦しと救いから除外されても仕方がない、と考えるかも知れません。しかし、神様の契約による救いは、完全で、一切の例外がありません。それを受け入れ、信じる、信仰の勝利をいただきますように、祝福します。神様の不思議な取り計らいが必ず準備されているはずです。
5. お前たちが進んで従うなら
ところで先生、イエス様が全ての人の罪のために死んだのであれば、だれでも救われるのですか。仏教やイスラムの人も救われるのですかと質問する方もいると思います。
聖書はどう語っているのでしょう。19節、20節です。「19お前たちが進んで従うなら大地の実りを食べることができる。20かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。」誰もが救われるのではなく、進んで従う者がその恵みをいただくことができます。
進んで従うということ、従順するというのは、どういうことでしょうか。ヨハネによる福音書6章29節です。「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」私たちがやること、それは信じることです。緋のような罪が雪のように白くなるために、私たちがやることは、イエス様を信じることです。しかし、かたくなに信じないならば、剣の餌食になります。裁かれます。ヨハネによる福音書3章18節です。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
6. 私の初めのクリスマス
私がイザヤ書1章18節に出会ったのは大学一年生の冬でした。当時、私は学生運動をしていました。大学学生会長の選挙戦が終わり、私は自分が属していた人文科学大学と英語英文学科の選挙戦に深く関りました。そして、自分が応援した候補が大学の学生会長に選ばれましたが、喜びも一瞬、何だか空しい気持ちになっていました。それは、心の中の問題、しみも汚れもない、責められるところのない存在として歩みたい、清い人生を歩みたいという、心の深いところにある課題を、解決することができなかったからでした。社会や世の中が変われば、内の心の問題も解決に向かうと思って学生運動に没頭しましたが、選挙が終わり、自分が応援した人が代表になっても、当たり前ですが、自分自身の中身は変わりませんでした。
その時、私に聖書を教えてくださったのが、この春に利別教会に来られた牧師で、恩師でもある、大学の先輩です。私と聖書の勉強をしながら、その先輩はイザヤ1章18節を示してくださいました。「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。」論じ合おうではないかという言葉はすべてを一つ一つ言い出して論じて見ようという意味です。私も先輩と一つ一つ自分の意見を出しては、論じ合いました。
この世の中のシステムに問題があること、その欠陥のあるシステムのせいで人々が苦しんでいること、だから権力とお金をすべての人が平等に分けて生きる社会にしなければいけないという意見を話しました。いわゆる、社会主義的な考え方でした。英文学や言語学の勉強している自分が、政治学科の先輩に、よくもそんな話をしたものだと思います。先輩はその時、社会のシステムは完全ではないこと、社会主義や共産主義が理想的なシステムであることに共感した上で、その社会と世の中のシステムを運用するのが人間であるということを話してくれました。たとえ理想的なシステムがあったとしても、それを運用する人間に問題があれば、そのシステムは壊れて問題が起こるしかないということでした。簡単に言えば、ナイフを使う人によって、美味しい御馳走が出ることもあるし、人殺しの凶器になることもあるということです。先輩の話、すなわち、人間に問題があるということに、自分も同意しました。
そしてその次に、先輩は、その人間がどのようにしてだめになったのか、その理由が、罪であると説明してくれました。その罪によって堕落したので、正しく生きることができないのだと話してくれました。自分の罪で心が病んで、心が清められて、しみも汚れもない、責められるところのない、落ち度のない人生を歩むことを求めていた私は、その話に相槌を打ちました。納得したのです。「そうだ。世の中を変えても堕落した人間が変わらなければ、どんないいシステムになってもいつも問題は起こるはずだ。人間が変になったのは罪によって堕落したからだとしたら、罪を解決しなければ、世の中を変えることはできないのだ」と、そう理解しました。
先輩は続けて、イエス様について話をしてくれました。イエス様が私の罪を全部背負って十字架で血を流して死んで罪咎を全部解決してくださいました。十字架で汚い罪、恥ずかしい罪、清くない思いの罪を全て、代わりに背負って死んでくださいました。そのイエスキリストを信じる者は「罪が緋のようでも雪のように白くなります」と説明してくれました。
その時、私は、イエス様が私のすべての罪、汚れ、責めを全部背負って十字架で死んでくださったことを受け入れました。受け入れると心が平安になりました。お腹の下から喜びが沸いて来ました。清くなって新しくされた気持ちを感じました。これが、わたしが救い主イエス様に出会った、私の最初のクリスマスでした。その最初のクリスマスから34年近く、イエス様が私の内におられ、また主として私の人生を導いてくださっています。イエス様に出会った皆さんもこのような御自分の初のクリスマスがあると思います。まだ、ご自分の初のクリスマスがない方は、今日、「論じ合おうではないか」と声を掛けてくださる主の御声に耳を傾けて福音を聞き、イエス様に出会えますように祝福します。
7.招きと決心の時間
それでは招きと決心の時間を持ちましょう。私たち人生は、僅かに現れてやがって消えて行く霧のように短い人生です。ただ一度だけの短い人生です。その一度の人生の中で罪が赦され、永遠の命をいただき、神の子とせられ、創造主に守られ導かれて生きるほど幸いな人生はありません。今、イエスキリストをご自分の罪のために死んでまた復活された救い主としてお迎えされますように、おすすめします。ヨハネによる福音書14章6節「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」」
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれ、すべての面で恵まれ、健やかであるように祝福します。」
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