メッセージ
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)
パウロが受けた福音
投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-06-02 07:16
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250601利別教会メッセージ
御言葉:コリントの信徒への手紙15章1節から11節
題:パウロが受けた福音
先週は預言者サムエルの母ハンナとアウグスティヌスの母モニカから、涙の祈りの恵みを分かち合いました。神様は涙の祈りを聞き入れて下さる方です。神様は、一人の魂のために流す涙を御覧になり、祈りに応え、慈しみを注がれる方です。
今日は、使徒パウロ自身が受けた福音について、コリントの信徒への手紙第一から、恵みを頂きましょう。コリントの信徒への手紙一の15章は、復活の章とも言われていて、イエス様の復活と死者の復活、そして、私たちの復活を語っています。コリント教会には死者の復活などないと思っている人もいたので、パウロはイエス様の復活について特に詳しく説明しました。それで復活の章になったわけですが、福音の章でもあります。本文に入りましょう。
1 生活のよりどころ
1節です。「1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」パウロが告げ知らせた福音について、「あなたがたが受け入れ」た福音は、コリントの信徒たちが「生活のよりどころ」としている福音であると語ります。ここで「よりどころ」とは、建設工事のために設置された足場を意味します。足場というのは、しっかり固定されずグラグラして不安定であれば、人命に関わる事故が発生します。福音はクリスチャンの信仰生活を支える足場です。
2 救いの福音
2節です。「2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」パウロから聞いた福音の内容をしっかり覚えていれば、その福音によって救われますが、そうでなければ、信じたこと自体が無駄になると警告します。それでは、パウロによって語られた、その福音について確認してみましょう。
3 福音とはどういうものか
福音とはどういうものであるのか、3節、4節です。「3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」ここに、福音の重要な要素が三つ書かれています。一つ目が①最も大切なこと、二つ目が②パウロも受けたものであるということ、三つめが③聖書に書いてあるとおり、ということです。一つずつ確認します。
一つ目、「最も大切なこと」です。パウロの語った福音は、「最も大切なこと」として、パウロからコリントの信徒たちに伝えられました。それ以来、今に至るまで福音は人から人へと伝えられ続けていますが、その福音は、昔も今も、「最も大切」に守るべきものです。聖書の中の聖書、御言葉の中の御言葉、それが福音です。
二点目として、パウロの福音は「わたしも受けた」福音であったということです。つまり、パウロが伝えた福音は、パウロが研究して生み出したものではなく、パウロ自身も受けたものでした。パウロは元々、クリスチャンを迫害する者でした。新約聖書に記録されていますが、彼はクリスチャンを捕まえるために、隣国のダマスコに向かう途中で、復活したイエス様に出会いました。そしてダマスコに住む弟子のアナニアに助け導かれ、ダマスコの弟子たちと一緒にしばらくの時を過ごしました。パウロは、その時に弟子たちから福音を受けたと思います。旧約聖書によく通じていたパウロは、神様の御計画と聖霊様の働きによって、福音の真理を誰よりも深く理解したに違いありません。そのように、パウロは弟子たちから福音を受け、他の弟子たちも、イエス様の11人の弟子たちから福音を受け、最初の弟子たちは、イエス様から福音を受けたのでした。
そして三つ目ですが、福音は「聖書に書いてあるとおり」であった、ということです。旧約聖書に予め示されていたとおりに正確に成就されたという意味です。逆に、旧約聖書に示されていたとおりであったから、イエス様が、最初の人アダムとエバの当時から預言され約束されてきた神の子メシア、救い主であると分かったのです。3、4節で、「聖書に書いてあるとおり」、「聖書に書いてあるとおり」、と繰り返されています。人間に救いを与えるかのような教えや学説は数多く世に現れました。しかし、聖書に書いてあるとおりでないならば、いかに心地良く響く教えであっても、それは救いを与える「福音」ではあり得ません。もしも聖書に書いていない言葉を福音として受け入れるならば、信じたこと自体が無駄になってしまいます。ですから、福音は、「最も大切に」「聖書に書いてあるとおりに」守り伝えるための努力が、常に必要です。
日本基督教団の信仰告白も、福音の真理から外れることの無いように、教団としてこれを定めています。日本基督教団信仰告白です。「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。~」。
聖書の御言葉を、そのまま真実であると認めて初めて、福音を理解し、受け入れ、罪の赦しと永遠の命をいただき、神様の憐れみと慈しみと、誠実と恵みと、力強さを味わうことができるでしょう。私と皆さんと、そして全ての方が、御言葉の前にへりくだり、活けるまことの神様に出会えますように祈り祝福します。
4 福音の内容
もう一度、3節、4節です。「3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」パウロが受けた福音の内容は、大きく二つあります。前半は「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」であり、後半はイエス様が「三日目に復活したこと」です。
前半、イエス様の十字架の死ですが、「私たちの罪のために」十字架で死んだというのが福音の前半です。自分が罪人であると言いたがる人は一人もいませんが、聖書は私たちが皆、罪人なので、福音が必要であると教えます。
この事について、人間が自力で理解できず、誤解しやすいと、イエス様は教えられました。ヨハネによる福音書16章8、9節です。「8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。10罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」とあります。この世で考える罪と聖書が教える罪は、同じではなく、ただ、聖霊様の助けにより、信仰によって理解できるものです。神様の仰る罪は、この世の認識とは異なります。この世では、目に見える犯罪は罪であるけれども、心の思いや考えは自由であると考えます。しかしイエス様は、悪口を言うことや、心の中で人を蔑むことも、殺人と同じ罪であると教えられました。
しかも、本当にどうしようもない罪はただ一つ、「わたし」つまりイエス様を信じない罪だと教えられました。どういうことでしょうか。それは、過去と現在と未来の、隠れた罪に至るまでの、すべての罪を背負って十字架で呪われた者となり血を流して死んでくださったイエス様を信じないならば、罪に対する責めがその人に残るからです。ヨハネのよる福音書3章18節です。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」罪を悔い改めイエス様を信じるならば、その人は罪から、西と東が遠いように、決して追いつくことの無い、遠い関係になります。しかし、イエス様を信じないならば罪はいつまでもその人の内に残り、裁かれることになります。それで、本当に救いようのない罪は、ただ一つ、イエス様を信じない罪だけとなります。
福音の後半は、イエス様が「三日目に復活したこと」です。イエス様が「三日目に復活したこと」は、どれほど強調しても、言い過ぎにはなりません。なぜなら、イエス様の復活によって福音が完成され、復活の力を信じる者に全能者による救いの力が現わされるからです。
死んだ人の復活は信じられないと思う人もいるかもしれません。死者の復活について旧約聖書には、例えばこう書いてあります。ヨブ記19章25、26節です。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」またイエス様は、十字架で死んで復活する少し前に、ラザロを生き返らせました。このラザロは、死んで4日も経っていたのに、よみがえりました。そしてイエス様は、御自分の死と復活について、予め弟子たちに語られました。マタイによる福音書16章21節です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」そして、その通りになりました。
ある人が、「イエス様が私の罪を全部背負って死んでくださったことを信じます。しかし、死者の復活はありえないので、イエス様の復活、それは信じません」と言うのであれば、その人は救われるのでしょうか?皆さんはどう思われますか?もう一度2節を読みましょう。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」信じたこと自体が、無駄になってしまうと答えます。それは、イエス様の復活がなければ、イエス様が私の罪を全部背負ってくださったことを信じても、その信じたことに意味がないという意味です。私たちの罪がどうなったか分からないからです。死と暗闇に打ち勝つ復活の力の伴わない救いは、虚しいものです。それは事実上、救いではありません。しかし神様が約束された救いは、死の力に打ち勝つ復活の力を伴う救いです。詩編103篇3~5節。「3主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、5長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。」
神の国とその義を求めつつ捧げる切なる祈りに応えて下さるので、復活の力を信じる信仰により、私たちの心と魂の深い所で、病の問題で、こじれた関係性の問題で、避けることのできない生活の現場で、全ての必要が満たされ、愛と喜びと癒しが与えられ、祝福が与えられるという、御力を伴う救いが現わされることになります。
5 わたしにも現れました
5節から8節までです。「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」パウロは復活の証人である多くの人が今も生きていて、自分もその証人の一人であると証します。
6 十字架は恵み
9節、10節です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」
パウロは、イエス様とイエス様を信じる者たちを殺し迫害した自分のような者を愛し赦すために、十字架で血を流して死んで、復活なされたイエス様への感謝と愛に動かされて、誰よりも多く働きました。しかし働いたのは神様の恵みだと告白します。恵みとは、一方的に与えられるものです。働きの労苦も、神様から与えられた恵みであるということです。イエスキリストの内にあるならば、主から与えられた労苦は虚しく終わる労苦ではありません。テモテの手紙二4章7、8節です。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。~しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
7 このように宣べ伝え、信じた福音
11節です。「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」パウロは先頭に立ってイエス様を信じる弟子たちを迫害しました。彼が受けた福音は私たちが受けた福音と同じ福音であって、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」でした。その福音をそのまま受け入れ信じる者はその福音によって救われます。癒され、祝福されます。朽ちるべきこの弱い肉体を脱ぎ捨てる日には、もはや夜も涙もない、天の御国へと導かれます。私のような土の器に、主イエスキリストの福音を納めて下さいました恵みに感謝します。
それでは、招きと決心の時を持ちましょう。ここに、まだイエス様を自分の罪のための救い主として受け入れていない方がおられるでしょうか。今日、イエス様を自分の救い主として受け入れますように祝福します。受け入れた人、その名を信じる者は神様の子供になる資格が与えられます。使徒言行録16章31節「「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。今、共に祈られた皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれているように、皆さんがすべての面で恵まれ、健康であるように祝福します。」
御言葉:コリントの信徒への手紙15章1節から11節
題:パウロが受けた福音
先週は預言者サムエルの母ハンナとアウグスティヌスの母モニカから、涙の祈りの恵みを分かち合いました。神様は涙の祈りを聞き入れて下さる方です。神様は、一人の魂のために流す涙を御覧になり、祈りに応え、慈しみを注がれる方です。
今日は、使徒パウロ自身が受けた福音について、コリントの信徒への手紙第一から、恵みを頂きましょう。コリントの信徒への手紙一の15章は、復活の章とも言われていて、イエス様の復活と死者の復活、そして、私たちの復活を語っています。コリント教会には死者の復活などないと思っている人もいたので、パウロはイエス様の復活について特に詳しく説明しました。それで復活の章になったわけですが、福音の章でもあります。本文に入りましょう。
1 生活のよりどころ
1節です。「1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」パウロが告げ知らせた福音について、「あなたがたが受け入れ」た福音は、コリントの信徒たちが「生活のよりどころ」としている福音であると語ります。ここで「よりどころ」とは、建設工事のために設置された足場を意味します。足場というのは、しっかり固定されずグラグラして不安定であれば、人命に関わる事故が発生します。福音はクリスチャンの信仰生活を支える足場です。
2 救いの福音
2節です。「2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」パウロから聞いた福音の内容をしっかり覚えていれば、その福音によって救われますが、そうでなければ、信じたこと自体が無駄になると警告します。それでは、パウロによって語られた、その福音について確認してみましょう。
3 福音とはどういうものか
福音とはどういうものであるのか、3節、4節です。「3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」ここに、福音の重要な要素が三つ書かれています。一つ目が①最も大切なこと、二つ目が②パウロも受けたものであるということ、三つめが③聖書に書いてあるとおり、ということです。一つずつ確認します。
一つ目、「最も大切なこと」です。パウロの語った福音は、「最も大切なこと」として、パウロからコリントの信徒たちに伝えられました。それ以来、今に至るまで福音は人から人へと伝えられ続けていますが、その福音は、昔も今も、「最も大切」に守るべきものです。聖書の中の聖書、御言葉の中の御言葉、それが福音です。
二点目として、パウロの福音は「わたしも受けた」福音であったということです。つまり、パウロが伝えた福音は、パウロが研究して生み出したものではなく、パウロ自身も受けたものでした。パウロは元々、クリスチャンを迫害する者でした。新約聖書に記録されていますが、彼はクリスチャンを捕まえるために、隣国のダマスコに向かう途中で、復活したイエス様に出会いました。そしてダマスコに住む弟子のアナニアに助け導かれ、ダマスコの弟子たちと一緒にしばらくの時を過ごしました。パウロは、その時に弟子たちから福音を受けたと思います。旧約聖書によく通じていたパウロは、神様の御計画と聖霊様の働きによって、福音の真理を誰よりも深く理解したに違いありません。そのように、パウロは弟子たちから福音を受け、他の弟子たちも、イエス様の11人の弟子たちから福音を受け、最初の弟子たちは、イエス様から福音を受けたのでした。
そして三つ目ですが、福音は「聖書に書いてあるとおり」であった、ということです。旧約聖書に予め示されていたとおりに正確に成就されたという意味です。逆に、旧約聖書に示されていたとおりであったから、イエス様が、最初の人アダムとエバの当時から預言され約束されてきた神の子メシア、救い主であると分かったのです。3、4節で、「聖書に書いてあるとおり」、「聖書に書いてあるとおり」、と繰り返されています。人間に救いを与えるかのような教えや学説は数多く世に現れました。しかし、聖書に書いてあるとおりでないならば、いかに心地良く響く教えであっても、それは救いを与える「福音」ではあり得ません。もしも聖書に書いていない言葉を福音として受け入れるならば、信じたこと自体が無駄になってしまいます。ですから、福音は、「最も大切に」「聖書に書いてあるとおりに」守り伝えるための努力が、常に必要です。
日本基督教団の信仰告白も、福音の真理から外れることの無いように、教団としてこれを定めています。日本基督教団信仰告白です。「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。~」。
聖書の御言葉を、そのまま真実であると認めて初めて、福音を理解し、受け入れ、罪の赦しと永遠の命をいただき、神様の憐れみと慈しみと、誠実と恵みと、力強さを味わうことができるでしょう。私と皆さんと、そして全ての方が、御言葉の前にへりくだり、活けるまことの神様に出会えますように祈り祝福します。
4 福音の内容
もう一度、3節、4節です。「3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」パウロが受けた福音の内容は、大きく二つあります。前半は「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」であり、後半はイエス様が「三日目に復活したこと」です。
前半、イエス様の十字架の死ですが、「私たちの罪のために」十字架で死んだというのが福音の前半です。自分が罪人であると言いたがる人は一人もいませんが、聖書は私たちが皆、罪人なので、福音が必要であると教えます。
この事について、人間が自力で理解できず、誤解しやすいと、イエス様は教えられました。ヨハネによる福音書16章8、9節です。「8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。10罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」とあります。この世で考える罪と聖書が教える罪は、同じではなく、ただ、聖霊様の助けにより、信仰によって理解できるものです。神様の仰る罪は、この世の認識とは異なります。この世では、目に見える犯罪は罪であるけれども、心の思いや考えは自由であると考えます。しかしイエス様は、悪口を言うことや、心の中で人を蔑むことも、殺人と同じ罪であると教えられました。
しかも、本当にどうしようもない罪はただ一つ、「わたし」つまりイエス様を信じない罪だと教えられました。どういうことでしょうか。それは、過去と現在と未来の、隠れた罪に至るまでの、すべての罪を背負って十字架で呪われた者となり血を流して死んでくださったイエス様を信じないならば、罪に対する責めがその人に残るからです。ヨハネのよる福音書3章18節です。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」罪を悔い改めイエス様を信じるならば、その人は罪から、西と東が遠いように、決して追いつくことの無い、遠い関係になります。しかし、イエス様を信じないならば罪はいつまでもその人の内に残り、裁かれることになります。それで、本当に救いようのない罪は、ただ一つ、イエス様を信じない罪だけとなります。
福音の後半は、イエス様が「三日目に復活したこと」です。イエス様が「三日目に復活したこと」は、どれほど強調しても、言い過ぎにはなりません。なぜなら、イエス様の復活によって福音が完成され、復活の力を信じる者に全能者による救いの力が現わされるからです。
死んだ人の復活は信じられないと思う人もいるかもしれません。死者の復活について旧約聖書には、例えばこう書いてあります。ヨブ記19章25、26節です。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」またイエス様は、十字架で死んで復活する少し前に、ラザロを生き返らせました。このラザロは、死んで4日も経っていたのに、よみがえりました。そしてイエス様は、御自分の死と復活について、予め弟子たちに語られました。マタイによる福音書16章21節です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」そして、その通りになりました。
ある人が、「イエス様が私の罪を全部背負って死んでくださったことを信じます。しかし、死者の復活はありえないので、イエス様の復活、それは信じません」と言うのであれば、その人は救われるのでしょうか?皆さんはどう思われますか?もう一度2節を読みましょう。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」信じたこと自体が、無駄になってしまうと答えます。それは、イエス様の復活がなければ、イエス様が私の罪を全部背負ってくださったことを信じても、その信じたことに意味がないという意味です。私たちの罪がどうなったか分からないからです。死と暗闇に打ち勝つ復活の力の伴わない救いは、虚しいものです。それは事実上、救いではありません。しかし神様が約束された救いは、死の力に打ち勝つ復活の力を伴う救いです。詩編103篇3~5節。「3主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、5長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。」
神の国とその義を求めつつ捧げる切なる祈りに応えて下さるので、復活の力を信じる信仰により、私たちの心と魂の深い所で、病の問題で、こじれた関係性の問題で、避けることのできない生活の現場で、全ての必要が満たされ、愛と喜びと癒しが与えられ、祝福が与えられるという、御力を伴う救いが現わされることになります。
5 わたしにも現れました
5節から8節までです。「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」パウロは復活の証人である多くの人が今も生きていて、自分もその証人の一人であると証します。
6 十字架は恵み
9節、10節です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」
パウロは、イエス様とイエス様を信じる者たちを殺し迫害した自分のような者を愛し赦すために、十字架で血を流して死んで、復活なされたイエス様への感謝と愛に動かされて、誰よりも多く働きました。しかし働いたのは神様の恵みだと告白します。恵みとは、一方的に与えられるものです。働きの労苦も、神様から与えられた恵みであるということです。イエスキリストの内にあるならば、主から与えられた労苦は虚しく終わる労苦ではありません。テモテの手紙二4章7、8節です。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。~しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
7 このように宣べ伝え、信じた福音
11節です。「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」パウロは先頭に立ってイエス様を信じる弟子たちを迫害しました。彼が受けた福音は私たちが受けた福音と同じ福音であって、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」でした。その福音をそのまま受け入れ信じる者はその福音によって救われます。癒され、祝福されます。朽ちるべきこの弱い肉体を脱ぎ捨てる日には、もはや夜も涙もない、天の御国へと導かれます。私のような土の器に、主イエスキリストの福音を納めて下さいました恵みに感謝します。
それでは、招きと決心の時を持ちましょう。ここに、まだイエス様を自分の罪のための救い主として受け入れていない方がおられるでしょうか。今日、イエス様を自分の救い主として受け入れますように祝福します。受け入れた人、その名を信じる者は神様の子供になる資格が与えられます。使徒言行録16章31節「「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
共に祈りましょう。祈ります。「天の父なる神様。わたしは罪びとです。どこから来て、どうして生まれ、何のために生きて、最後はどこに行くのか知ることもなく、さまよい、ただひたすら生きてきました。私の罪のために、十字架にかかり、罪をきよめる血を流して死なれ、よみがえられたイエス様を、私の救い主としてお迎えします。私はきよめられ、神様の子供になりました。感謝します。今から、いつまでも、主と共におります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。今、共に祈られた皆さまを祝福します。「皆さんの魂が恵まれているように、皆さんがすべての面で恵まれ、健康であるように祝福します。」
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