メッセージ

あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。(詩編119篇105節)

マルタとマリア

投稿者
toshibetsu
投稿日
2025-07-28 16:34
閲覧数
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250727利別教会メッセージ
御言葉:ルカによる福音書10章38節から42節
題:マルタとマリア
先週は、神様を知らず、神様が行われた御業も知らない世代への神様の切なる思いを心に思い巡らせました。今日はマルタとマリアと言う題で恵みを頂きましょう。
1. 主の話に聞き入る
38節です。「一行は歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」イエス様の一行がある村に入りました。この御言葉の一行は12人の弟子たちであると私たちは考えがちですが、この10章の始まりには70人の派遣と帰って来た70人の弟子が伝道報告をする場面がありますので、12人の弟子たちを含めてイエス様とほかの弟子たちもいたかもしれません。この大勢のイエス様の一行がある村に入りました。すると、マルタという女性がイエス様を迎え入れました。イエス様だけを迎え入れたのではなく、恐らく、この一行を迎え入れたでしょう。このマルタはヨハネによる福音書11章の死んで4日経って蘇られた場面にも出るマルタと同一人物で親に先に死なれた3人の兄弟姉妹の一番上の姉です。この家にイエス様と弟子たちはたびたび泊まって家族のように親しい間柄でした。今日の御言葉はラザロが病気になって死んでよみがえる前の出来事です。
39節です。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」3人の兄弟姉妹の一番下の妹がこのマリアです。マリアは姉のマルタがイエス様を家に迎え入れたので喜んだでしょう。そして、イエス様が座られると、普通は一二を争うほど熱心な弟子たちが座るはずの場所、つまり、イエス様に一番近いところ、足もとに座りました。そして、イエス様の話に聞き入りました。子供であったらイエス様に抱っこしてもらったかもしれません。
2. マルタはせわしく立ち働いて
 40節です。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」昔は電話がありませんでしたので、先に何かを準備しておくことはできませんでした。でもマルタは、せっかくイエス様が来られたと思い、イエス様が好きなもの、喜ばれるもの、旬のものと、いろいろ気を遣ったのでしょう。忙しく、せわしく立ち働いていました。イエス様を愛するからこその行動でした。
 しかし、そうするうちに、手が2本では足りなくなりました。猫の手も借りたい状況で、イエス様の足の下に座ってお話に聞き入っている妹のマリアが目に触りました。マリアがイエス様のお話を聞くのは悪い気は全くしないにしても、頑張りすぎてイライラしてきたのでしょう、イエス様のそばに近寄って口を開きました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」イエス様の邪魔をするつもりはなかったのですが、マルタは我慢できなくなったのでしょう。マリアはイエス様のそばでじっとお話を聞いていて、自分だけが汗ばみながらこのようにせわしく立ち働いていると感じました。ちょっとした感情に従って、マリアと自分を比べて、批判的になり、不満を口に出すに至りました。
3. 多くのことに思い悩み
41節です。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」イエス様は弟子たちとマリアに話をしながらも、マルタのことを気にかけておられました。皆座って聞いているのに、マルタだけは一人、あちらこちらを行ったり来たりして立ちっぱなしで働いていた、その心をも御存知であったはずです。忙しいこと、一杯いろいろなものを準備してイエス様と弟子たちをもてなしたいこと、キャパシティーオーバーになっていることも御存知でした。それで、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と優しく話しました。
4 必要なことはただ一つ
 42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」41節と42節の前半までが一つの文章になっています。英語では「you are worried and upset about many things, but only one thing is needed.」と書かれています。いろいろ多くのことで悩んでイライラしているが、必要なものはただ一つであるという話です。もちろんこれは食べ物のメニューの話ではありませんし、メインメニュー一つあれば十分ですよということではありません。イエス様が言いたいことは、イエス様が喜ばれるものは何かということです。マルタはイエス様を迎えて多くのことをしました。掃除も、食べ物も、お茶も、環境も、何もかも準備しました。それで、思い悩みました。しかし、マリアはイエス様の足もとに座って御言葉に聞き入りました。イエス様は言われます。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
5. マルタの信仰生活
それではまず、マルタの信仰の行動について考えたいと思います。マルタはイエス様を迎えて一生懸命もてなしました。そこには何の問題もないはずでした。このマルタとマリアの出来事の直前には、聖書の中で一番有名な喩え話の一つである善いサマリア人の隣人への奉仕、隣人への愛の御業が示されています。熱心に主のために、教会のために、隣人のために奉仕することは良いことです。なので、マルタが主イエス様を迎えてもてなしをするのも、良いことでしょう。
良いことであれば、何も問題がないはずです。少なくとも、最後まで一生懸命準備してイエス様と弟子たちとマリアと共に讃美して感謝と喜びのうちに御馳走を食べたならば、問題なかったでしょう。問題はマルタの心に喜びがなく、思い悩みや不平不満、イライラがあったことです。そして、そのイライラから、イエス様のお話の途中で、マリアに声を掛けてくださいと口に出すに至ったことです。
イエス様のたとえ話の中にぶどう園の労働者のたとえがあります。イエス様は天の国を次のようにたとえられました。マタイ20章1節からです。「1~ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2主人は、一日に一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3また、九時ごろ行ってみると、~6五時ごろにも行ってみると~」仕事に行かずにいる人がいたのでぶどう園に行って働くようにしました。そして、夕方の6時に、五時からぶどう園に来て一時間も働かなかった労働者に主人は一デナリオンを支払いました。それを見て、一日中働いた者たちは、自分たちはもっともらえると考えましたが、同じく一デナリオンを受け取ると、イライラして不平を言いました。この労働者たちとマルタに似た点があります。それは最後に喜ばれなかったことと誰かと比較したことです。誰かと比べると喜びは飛んで行きます。5時に来て一デナリオン受け取る人たちと一日中畑で労した自分たちを比較すると喜びとやりがいは不平不満に変わりました。マルタは、イエス様に「マルタ、マルタ、多くのことに思い悩み、心を乱している」と声を掛けられて、我に返ったことでしょう。
6 マリアの信仰生活
 次にマリアの信仰生活です。イエス様は「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。人間的に見ると、何かずるい行動に見えます。なのに、イエス様は良い方を選んだと褒めて、それを続けて欲しいと言われたのです。ここに、イエス様と神様の深いお考えがあります。
これはある牧師先生から聞いたことですが、昔からの信仰者たちが告白したものでもあります。それは、人間の第一の存在目的は何ですかと言う質問です。ウェストミンスター教理問答にもあります。皆さんもこれを聞いて答を御存知だと思います。人間の第一の存在目的、それは神様を愛し、神様を喜ぶことです。
 マリアはイエス様を喜び、イエス様の御言葉を喜びました。マリアは単純にイエス様の招きに応じて、本当に、忙しく立ち働く姉の横でじっと耳を傾けたのでした。詩編1篇1~3節「1いかに幸いなことか~2主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」イエス様の存在を喜ぶマリアは何かを準備して頑張る必要がありませんでした。何かを作る必要もありませんでした。イエス様が来るからと、単純に喜びました。喜んで嬉しそうに近くに座ってその御言葉を聞き入りました。「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」とは、何と幸いな人生でしょうか。イエス様が、良い方を選んだ、と仰る意味が分かるような気がします。
 主イエス様と父なる神様は私たちを愛し、喜んでいます。ゼファニヤ書3章17節です。「お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにしお前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」父なる神様が私たちを喜ぶのならば、私たちも神様を喜ぶことができます。実に神様がイエスキリストをこの世に遣わしたのは暗闇の世界にいる私たちを救い出してご自分の家の子供にし、私たちを愛し、喜ぶためです。コロサイの信徒への手紙1章13節です。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下にうつしてくださいました。」愛する御子イエスキリストの支配下にいる人は皆、神様の愛する子供です。また、聖霊様も私たちがイエスキリストによって神様の子である、子になっていることを確信するように助けてくださいます。ローマの信徒への手紙8章15節です。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」
 メッセージを閉じます。何もできなくても、主イエス様の事を思うたびに喜びと感謝に覆われる、その喜ばしく嬉しい信仰生活こそが、良いことであり、一つだけを選ぶならばそちらを選ぶべきことです。神様を喜ばせることをするのではなく、神様からの何かをいただいたから喜ぶのではなく、神様ご自身を喜ぶということです。主イエス様を思えば、神様を呼べば、喜びがあふれ、嬉しくなる時があります。マリアの信仰生活です。父なる神様と主イエス様を喜ぶのが先で根本です。父なる神様と主イエス様を喜び感謝することで十分なのです。それで、イエス様を愛し、イエス様の御言葉に耳を傾け御言葉を思い巡らせるにせよ、イエス様に従い多くの人のために汗を流すにせよ、喜びと感謝を告白しながら歩む、私と皆さんでありますように祈ります。
 それでは、招きと決心の時を持ちましょう。ここに、まだイエス様を自分の罪のための救い主として受け入れていない方がいらっしゃるでしょうか。私たちを愛し、イエス様を与えられた神様は、イエス様を救い主として受け入れる人に、罪の赦しと、永遠の命と、神様の子供になる資格を与えて下さいます。労苦の多いこの世にあって、真の安息を与えて下さいます。マタイによる福音書11章「28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」イエスキリストが、私たちの受けるべき責めと恥と呪いを全て、代わりに受けて下さいました。夏休みには各地でお祭りが開かれて、大勢の人々が行き交いますが、他の神々でも先祖でもなく、イエスキリストを救い主として受け入れるならば、今日、新しい命をいただきます。ヨハネによる福音書7章「37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」」そして、神様を喜ぶだけでなく、神様に喜ばれる神の子となり、最も幸いな人生となります。今日のマリアのように、共に主に近づきましょう。ホセア書6章「3我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
共に祈りましょう。
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